「明日、犬が来るのよ。」と、夕食の時、義母が言った。
えっ、いぬ?
そう言ってしまいそうになるが、ぐっとこらえる。
代わりにでてきた言葉が、
「突然ですよね。」だった。
「前から欲しくて、前から頼んでいたのよ」と、義母が言った。
夫の顔を見ると、曖昧にうなづくだけ。
自室に帰り、私は夫を問い詰めた。
「私が犬が嫌いなの知ってるでしょ?
それに、もうすぐ赤ちゃんが産まれるのに、犬の毛とかって大丈夫なのかなぁ。」
しかし、夫は全く相手にしてくれなかった。
私は犬がきらいだ。
小さい時に、追いかけられたことがある。
走って逃げても逃げても追いかけてくる犬が、怖くてたまらなかった。
小さくても大きくても、可愛くても、噛んでくる犬がトラウマになっている。
だから、これまで近づかないし、飼うなんて論外だった。
それなのに、明日から犬を飼うという。
明日、犬が来るというのだ。
次の日、私の抵抗も虚しく、生まれて二週間のシベリアンハスキーがやってきた。
義母は「可愛いでしょ?」と言って、犬を私に抱かせた。
ブルーと茶色、左右で違う目。
「目の色が右左で違うんだ」
私がそう言いながらこわごわ犬を下ろすと、今度は絨毯におしっこをしてしまった。
おしっこもするんだ。
こっちは妊婦なのに、それをふきとる新しい仕事まで増えるんだ。
その犬は「幸」と名付けられ、義父母は夢中になっていた。
苦手な私は、近寄りもしない。
一人蚊帳の外だった。
それから私は、自分の出産のために里帰りし、幸からは離れる生活をしていた。
次に幸に会った時、幸は成犬に近い大きさになっていた。
怖い。
口も大きいし、足も太い。
それに、息が荒い。
それまで見てきた日本犬とは、まるで違う。
鳴き声も獣のようだった。
これから、何年この犬を飼うんだろう。
そんな不安な日々を過ごしていたある日のことだった。
その日は、風が強くて曇っていた。
幸は初め「ワンワン」と吠えていた。
しかし、それが「ウォーウォー」となり、
やがて「ウォーーーーーーーー」という遠吠えに変わった。
怖いと思っていたら、案の定、苦情の電話がかかってきた。
「もしもし。お宅、オオカミ飼ってるの?」
「いえ、犬です」
「そんなわけないわ。あんな遠吠え、オオカミしかないわよ。怖いし、うるさいでしょ」
「すみません。ハスキーなんです。何とかします」
無理もない。
あれは、まるで、オオカミの遠吠えだった。
また、幸に困らされ、イライラがたまっていった。
翌日、私たち家族は、原因究明のため、幸の犬小屋に入っていった。
すると、工事中のガレージに被せたブルーシートが、風にあおられ、パタパタ音を立てていた。
昨日は風が強かったから、この音も大きかったはずだ。
きっと、幸はそれに反応したんだろう。
それで、ブルーシートを片付けた。
その夜から幸の遠吠えは、おさまった。
体は大きいくせに、風で揺れるブルーシートの音が怖い。
実はとても弱虫な犬だった。
そして、それは、私にとって、幸の意外な面となった。
幸が来てもうすぐ一年の頃、娘がハイハイしだした。
娘は、幸のことが大好きで、「幸、幸」と言いながら、どんどん近づいていく。
あの大きな足で、鋭い歯で、襲われるんじゃないかと、私は気が気ではなかった。
けれど、私の予想とは、全く違った。
幸は、されるがままだった。
困ったような顔で、じっと耐えていた。
ある日、芝生の上で、娘が幸の前足で、ころころ転がされていた。
「大丈夫、大丈夫」
そう言いながら見ていた義母も、思わず身を乗り出す。
すると、娘は、回された後、きゃっきゃっと笑いながら顔を上げ、起き上がる。
そして、幸に「もう一回」のおねだりをして幸を困らせているではないか。
幸は、困ったという顔で、こちらをみている。
「幸、かーわい。」 と、思わず言ってしまった。
私は、ようやくほっとした。
そして、このデカいハスキーの幸が、好きになっていった。
幸は、8匹の子供を産み、18年生きた。
最後は病院で息を引き取った。
迎えに行ったのは、私だった。
最近、
「娘がハスキー飼い出してん」と言う近所のおばちゃんが、携帯の写真を見せに来る。
「今、学校へ行ってんねん。ちゃんと躾してもろて、野山も走らせてもろてるんやって。ホッとするわ」
ハスキーの写真を全面にプリントしたTシャツを着て、ハスキーのキーホルダーをぶら下げている。
その姿を見ていると、自分がハスキーを嫌っていたことを後悔する。
あの時、幸を受け入れられなかった私。
けれど、娘との時間が、私を変えてくれた。
今なら分かる。
幸は、ただの犬ではなく、家族だったのだ。