「いってらっしゃい」
父は、今日もバイクで出かけていった。
私は、祈るようにその背中を見送った。
エンジン音が遠ざかると、庭は急に広く感じられた。
芝生を踏むのは、私だけ。
そこにあるはずの気配が、まだ戻ってきていなかった。
この静けさは、いつからだっただろう。
──大学に入った秋、私たちの家にジョンがやってきた。
生後三か月の、柴犬とスピッツの雑種。
茶色と白が混じった毛並み。
首回りの毛はふわふわで、抱きしめると心まで温かくなる。
そんなジョンの首に、父は鈴のついた首輪をつけた。
小さな鈴の形をしているのに、音は鳴らない。
「猫じゃないのに、鈴つけるの?」
私が聞くと、父は平然と答えた。
「これがあると、すぐわかるだろ?」
音はしないのに、
それでも父は満足そうで、母と私は顔を見合わせて笑った。
ジョンが来てから、庭はにぎやかになった。
庭で放し飼いのジョンは、すぐに小学生たちの人気者に。
「ジョンと遊んでいい?」
そう元気に声をかけてくる子どもたちに、
ジョンは尻尾をぶんぶん振って大喜び。
庭には笑い声が広がった。
近所の人たちも、ジョンを撫でにやって来た。
ジョンは、自然と人をつなげていた。
父と私も、そうだった。
私たちは、あまり多くを言葉にする関係ではなかった。
でも、ジョンのことをきっかけに、少しずつ言葉を交わすようになっていった。
父の土日の朝は、ジョンとの散歩が日課だった。
けれどある朝、父はひとりで帰ってきた。
ジョンの姿は、どこにもなかった。
「ウサギを追いかけて、見えなくなってね…」
父はそう言い、ぽつりと付け加えた。
「すぐ戻ってくると思ったんだけど…」
私も、その日のうちに戻ってくると思っていた。
門の外でウロウロしているジョンを見つけて、
「お帰り」と言う自分を想像していた。
でも、ジョンは帰らなかった。
どこに行ったんだろう…
次の日も、その次の日も、姿は見えなかった…
庭は一気に静かになった。
日常に、ぽっかり穴が開いたようだった。
「ジョーン!ジョーン!」
「ジョン、来ないね…」
子どもたちの声だけが、庭に響いた。
庭で一緒に遊んだ日々。
抱きしめたぬくもりは、まだ残っている。
それなのに、姿だけがない。
やがて父は、土日になるとバイクで探しに出かけるようになった。
雨の日も、同じように。
でも、帰ってくるのはいつもひとり。
そんな日が積み重なっていった。
──もしかしたら、もう帰ってこないかもしれない…
胸の奥で、そんな思いが大きくなっていった。
それでも父は、何も言わず探すことをやめなかった。
私は、父を見送るたび、
そっと願いを込めるようになった。
──早く見つかりますように…
ジョンがいなくなって二か月目の、ある休日。
その日も、父はバイクで探しに出かけて行った。
夕方、父から電話がかかってきた。
「ジョン、見つけたっ!!」
父の声は弾んでいた。
「あー、よかったぁぁ!」
私は、泣き笑いの声をあげた。
交差点の近くのコンビニ横で、茶色い犬を見つけたという。
父によると、
その犬は呼ぶと振り向き、迷わず駆け寄ってきたそうだ。
決め手は、あの首輪。
父がつけた、鳴らない鈴!!
ほどなくして、父とジョンが帰ってきた。
ジョンは猛スピードで庭を駆け回り、
母と私に尻尾を振って飛びかかってきた。
コンビニ横で見つかったジョンは、かなり大きくなっていた。
その重さに、私たちは後ろにひっくり返りそうになった。
私は思わず叫んだ。
「ジョン、なに太って帰ってきてんのよー!!」
庭に、笑い声と足音が戻った。
鳴らない鈴は、何も知らせてはくれなかった。
けれど、ジョンであることは確かに教えてくれた。
今、ジョンがここにいる。
あの鳴らない鈴が、つないでくれた気がした。
よく帰ってきたね。
お帰り、ジョン!