「娘を失うかもしれない」
そんな最悪の事態が脳裏をよぎり、
あの日、私は生きた心地がしなかった。
娘には、自分がこうだと思ったことは、人に何を言われようと曲げない頑固さと、
それを即実行する行動力がある。
当時3歳の彼女に、既にその片鱗は現れていた。
リーン!リーン!
息子のピアノ教室に、携帯電話の音が鳴り響いた。
5歳の息子は、お友達に誘われてピアノ教室に通っていた。
いつもは娘も一緒に行くのだが、その日は、母が見てくれるというのでお留守番していた。
携帯をみると、画面には「母」の文字が表示されている。
――なんだろう? 今レッスン中だって分かってるはずなのにな。
「ちょっと失礼します。」
先生に断って、私は廊下へ出た。
「もしもし。なに? 今レッスン中なんだけど。」
「あ、あの、あのね…。」
母の様子がおかしい。妙に慌てている。
「なっちゃんが、なっちゃんがいなくなったの!」
私は耳を疑った。
「え?どういうこと?お母さん見てくれてるんじゃなかったの⁈」
「えっと、ちょっと目を離した隙にね…。」
母の言葉に絶句する。
心臓がドクンと大きな音を立てた。
「分かった。とにかくすぐ帰るから!」
娘は、大人しくはなかったけど、ひとりで出かけるような子ではなかった。
というか、まだ3歳だし。
急いで電話を切り、息子と先生にひと言告げて、家路を急いだ。
――いや、そんなこと言って、ホントは家にいるんじゃないの?
その時はまだ、きっと家の中のどこかにいるだろうと思いこもうとしていた。
帰宅して母から急いで話を聞く。
母曰く、来客があって話をしていて、隣の部屋にいるんだろうと思っていたら、
いなくなっていたと言うのだ。
――それ、見てるって言わんよ!
不安が一気に恐怖へと変わった。
トイレも押し入れも、テーブルの下もクロ-ゼットも、家中探し回った。
だが、どこにもいない。
――どうしよう、どうしよう…。
「外、探してくる!」
母に告げて家を飛び出した。
こっちの道か?それともあっちか?
すれ違ったらどうしよう…。
心臓がバクバクする。
携帯電話を握りしめる手が震える。
わが子がいなくなる…ニュースで見るようなことが自分の身に起こるなんて!
もしも事故に遭ったら…。
もしも不審者に連れ去られたら…。
最悪の事ばかり浮かんでくる。
もしも娘を失うなんてことになったら…!
近所の公園、良く通る道…思いつく場所を探し回った。
どれくらい探しただろうか。
警察に行った方がいいかな…
そう思い始めたとき、再び携帯が鳴った。
ピアノの先生からだ。
「もしもし。なっちゃんのお母さんですか?」
明るい先生の声が聞こえてきた。
「なっちゃんこちらにいますよ!」
――え?
なんでピアノ教室に?
私の頭は混乱した。
「なっちゃんの保育園のお友達のお母さんが、連れてきてくれたんですよ!」
全身の力が抜けていく。
――良かった…。本当に良かった。
教室へ向けて車を走らせながらも、頭の中を疑問がぐるぐる巡る。
お留守番が心細くなっちゃったんだろうか。
でも、おばあちゃんがいるのに1人で出て行ってしまうなんて。
それに、どうしてママ友が?
景色も信号も目に入らないほど無我夢中で、どうやって辿り着いたか分からない。
急いで駐車場に車を停め、教室へ走った。
「ママ~!」
教室へ着くと、笑顔の娘がいた。
その顔を見た瞬間、ぶわっと涙が溢れた。
「良かった!本当に良かった!」
私は娘をぎゅっと抱きしめる。
ママ友に何度も頭を下げてお礼を言った。
聞けば、たまたま道で見かけて声を掛けたら
「ピアノ教室まで行きたい」というので連れて来てくれたのだという。
そんなことある?
なんて運が良い子なんだろう!
本当にありがたかった。
ふと時計を見ると、永遠に思えた時間は、実際にはほんの数十分だった。
家に帰り、娘に理由を聞いてみた。
「どうしてピアノ教室に行きたかったの?」
娘の口から飛び出したのは、予想をはるかに超える答えだった。
「だって、お兄ちゃんのたまごっちが結婚しちゃったんだもん!」
「え?なんじゃそりゃ⁈」
拍子抜けして思わず笑ってしまった。
当時子どもたちの間で大ブームだった『たまごっち』。
どうやら息子は、自分が育てているキャラクターを、まだ結婚をさせたくなかったらしい。
娘は、自分がうっかり触って結婚させてしまったことに、
大変なことをしてしまった、と思ったようだ。
ピアノ教室までの道は、いつも行ってるから行けると思ったらしい。
いやいや。
子どもの発想ってすごいよなと、呆れつつも感心してしまった。
「1人で怖くなかったの?」
「ううん。怖くなかったよ。おにいちゃんに言わなくちゃって思ったの!」
ただそれだけの想いを胸いっぱいに抱えて、一心不乱にピアノ教室を目指したのだろう。
小さい体で短い足を前へ前へと進めて歩く姿が目に浮かぶようで、愛しさが溢れた。
私はもう一度、娘を抱きしめた。
自分の中に、命が戻ってきた気がした。