「子どもは支配するものだと思っていた。」
私が50歳になった時、父からそう言われた。
人生も後半になって、父からそんなセリフを聞くことになろうとは。
――は?
一瞬耳を疑ったが、同時に「あぁ、やっぱりね。」とも思った。
どうりで、これまでの人生、力づくで私を従わせようとしてきたわけだ。
私は物心ついたころから、「自分は親の失敗作だ」と思って生きてきた。
子どものころから父の理想とは程遠かったのだろう。
力づくで従わせなければならないほど、私は思い通りにならない人間だったのだ。
発達性トラウマ、アダルトチルドレン、ネガティブナルシズム。
大人になって知ったそんな言葉のどれにも、私はドンピシャに当てはまった。
父との関係は最悪で、
私のお腹の中にはいつもマグマがふつふつと沸き立っている。
時に火山が噴火して、激しい口論になることもあった。
いつも不機嫌で、顔を合わせれば怒鳴る父。
私は愛されていないんだ。
そう思って生きてきた。
あの時までは――。
あの衝撃の告白から1年程たったある日。
「お父さんが喀血したから、明日から検査入院するよ。」
と母から告げられた。
私はちょうどぎっくり腰で休職中だったこともあり、病院へ付き添うことにした。
「1週間で帰ってくるから。」
と父は珍しく穏やかに言った。
検査入院の予定は、確かに1週間。
入院当日、父が検査に入るタイミングで、「もう帰っていいよ」と言われたため、
荷物を置いて帰宅した。
母とお茶を飲みながら、
「何の病気だろうねぇ。でも、お父さんは大丈夫だよね。」
と話す。
これまでいくつもの大病を乗り越えてきた、不死身の父だ。
めちゃくちゃ長生きするに決まっている。
不安げな母をよそに、私は全く心配していなかった。
しかし、突然電話が鳴り響いた。
病院からだった。
「手術をするので、もう一度病院に来てください」
――え?
どういうこと?
さっきはそんなに深刻な雰囲気ではなかったはずなのに。
私たちは困惑したまま、急いで病院へと引き返した。
病名は心筋梗塞。
手術は無事成功。
「ほら、大丈夫でしょ」と母に言う。
翌日、顔を見に行ったら父は元気そうだった。
ごはんもモリモリ食べている。
やはり不死身だ。
そう安心した翌朝、再び病院から電話で呼び出された。
「呼吸が止まりました」
――へ? コキュウガトマッタ?
意味が分からない。
慌てて駆けつけると、父の顔には大きな呼吸器がついていた。
――今日って一般病棟に行くんじゃなかったっけ? なんでそんなもの付けてるの?
疑問が浮かんだが、何故か声にならなかった。
先生の説明によると、肺に溜まった血液で、溺れたような状態になったらしい。
それでも父の生命力はすごかった。
食事の時は外すことになっていた呼吸器だが、外して酸素飽和度の値が80%を切っても、
なおご飯をモリモリ食べていた。
ふと私の顔を見て、
「眼鏡かけた方がかわいいぞ。」
すきっ歯を見せてニヤリと笑う父。
「失礼な。」
そんな他愛もない会話をした。
それから二日後、三度目の呼び出しがかかる。
「心肺停止です」
――え?
………
人工心肺をつけてもらったが、その二日後、父は静かに息を引き取った。
本当に、約束通り1週間後に、父は無言で帰ってきた。
――なんで?
私の中では不死身の父。
あの怒鳴り声を聞き続けると思っていたのに、
永遠に続くバトルを覚悟していたのに、
父は、あっけなく逝ってしまった。
母の希望で、父の遺品は整理していなかった。
それらを見る度、私の中に苦い思いが湧く。
――結局仲良くなれなかったな…。
それから2年ほど経ったある日。
玄関でふと父の靴を見た。
――お父さんの靴。
お父さん、これ履いていつも走ってたな。
ジョギング好きの父が走る姿が浮かぶ。
茶色い靴、短パンに白Tシャツ、禿げた頭に汗をかきながら笑顔で走る父。
――ん?
笑顔?
あれ? お父さん、笑顔だ。
廊下には、父の描いた絵が掛けてある。
廊下の壁に向かって、腕組みをしながら絵を見ている父。
小柄な体になかなかの筋肉質な腕。
禿げ頭の横顔は、満足げに笑っている。
――笑ってる。お父さん笑ってるやん。
気がつけば、父の痕跡に見えるのは、父の笑顔ばかり。
顔を合わせればいつも不機嫌に怒っていた父。
私には、その記憶しかなかったはずなのに。
音楽を聴く父、コーヒーを飲む父、日曜大工をする父…。
そこには、「すきっ歯」を見せてニヤリと笑う父がいた。
怒りで見えなくなっていた、でも心の奥には記憶されていた父の笑顔。
こんなに私を笑顔で見つめてくれていたんだ。
私といる時、こんなに幸せそうにしてくれていたんだ。
いつも怒鳴っていた父。
本当に大嫌いだった。
でも本当は、愛がなかったのではなく、
父の不器用な愛情表現だったのではないか。
そう思ったら、胸が温かくなった。
――あぁ、きっとそうだ。
父が最後に見せてくれた「すきっ歯」の笑顔
それが答えだ、
そう思った。