それは、取れません

人間関係

 
……あっ、それは

美容院の鏡の前で、
私は、そう喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。

女性アシスタントさんの手が、ぴたりと止まる。
鏡越しに見えるその顔に、はっきり書いてあった。

──あっ、しまった……

その瞬間、鏡のなかで、彼女とは目が合わなかった。

何だか気まずい空気。
私も、心の中では戸惑っていた。

言ってしまえばよかった…

そう思ったけれど、時すでに遅し…。

私たちは、気まずい空気のまま、やり過ごすしかなかった。
 

その日、私は3か月ぶりに美容院に行った。
いつも指名している男性美容師さんが、

「こんにちは!」
と笑顔で迎えてくれた。

「今日は、どうします?」

「いつも通り、カットとカラーで」
と答えた。

カット中、男性美容師さんが、

「髪、きれいですね」
「まだそんなに白髪は多くないですよ」

と言葉をかけてきた。
胸の奥がちょっとくすぐられたような気分だ。
自然に頬がゆるんで、気分が少し上がった。

カットは滞りなく終わり、次はカラー。

「よろしくお願いします」
そう言って、女性アシスタントさんが作業に加わった。
美容師1年目だという彼女は、しゃべりすぎず、気遣いもほどよい。

カラーは、いつも通りだ。
白髪染めではない。
「白髪を目立たなくするカラー」だ。
正直、違いはよくわからない。

カラー後、シャンプーも、その女性アシスタントさんだった。

「シャンプー、得意なんです!」
と言っていた通り、確かに上手。
ほどよい力加減で、頭の凝りが、じんわりほどけていく。
ふわっと、柑橘系のシャンプーの香りが広がる。

気持ちいいなぁ…

うとうとしていているうちに、シャンプーは終わった。
タオルで頭を覆われたまま、元の席へ。

彼女はタオルを外し、濡れた髪を、くしで整える。
シャンプーで落としきれなかった、顔周りのカラー剤。
それに気づいて、丁寧に拭いてくれた。

細かいところに気づいてくれて、助かるなぁ。

私は鏡越しに、彼女の動きを黙って見ていた。

そして、もみあげの下あたりも。
真剣そのものの表情で…。
念入りに、何度も、何度も……。

ん?そんなに頑固に付いてるのかな?
 
……あ。

私は、そのとき、気づいてしまった。

──それは……

「シミ」だった。


歳に抗っても、どうしても出てくる、あのシミ。
このもみあげ下のシミに気づいたのは、1年ほど前。

洗面台の三面鏡で、何度も確認した。
薄茶色の、小さな、でも確かな痕跡。

ああ、私、ちゃんと歳取ってる……

そう、現実をつきつけられた気がして、ショックだった。
自分が確実に歳を重ねていることを、思い知らされたのだ。

でも誰にも言わなかった。
見えにくい場所だし、お手入れすれば少しは薄くなるかも──
そんな淡い期待を抱きつつ、
平気な顔で、見て見ぬふりをしてきた。

けれど、薄くはならなかった。
これが現実。もう、目を背けられない──。

そして今、彼女はまさに、このシミを拭き取ろうとしていたのだ。

店内には、
他のお客さんの会話や、ドライヤーの音。

でも、私と彼女の間にはわずか2秒ほど、
無音の時間が流れた。

きっと、見て見ぬふりをしてくれたんだなぁ…
気を遣わせちゃったなぁ…

結局、その日私は、何も言えず、そのまま美容院を出た。

だけど…

本当は私、
アハハって笑って、

「あっ、それシミかもです」

って、言いたかったぁ。

その方が、お互い笑えて、
気持ちも、スッキリしていたはずだから。

こんな場面、またあるかはわからない。
でも、もし次があるなら…。

今度は、目を背けず、こう言おう。

「それは、シミです!!」

事務職として働きながら、エッセイを学ぶ。 日常を振り返った時に気づく、 小さな違和感や感情の揺れをすくい取り、 言葉にすることを大切にしている。

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