「今日は、母も娘もスタッフも、全部休む!」
固く決意する。
子どもの事、親の事、仕事の事。
フル稼働で、私は自分の時間というものをあまり持てて来なかった。
不器用な私は、次の段取りや後悔や心配や苛立ちで、常に頭をいっぱいにしていた。
そんな私が唯一時間を忘れる場所がある。
今日は日ごろの全てを忘れて行けるのだ。
久しぶりにワクワク♪
軽く深呼吸して、私はそこへ一歩足を踏み入れる。
すると、かすかに漂う紙とインクの香りにふわっと包まれる。
一瞬息を止めたくなるような静けさが漂う異空間。
そこは、
本屋。
この日のお目当ては市内の大きな本屋さん。
店内には大きな書棚が整然と並び、心地よいヒーリングミュージックが流れている。
まだ夏の始めだけれど、エアコンが効いていて少し肌寒いかな。
一気に日常のあれこれが飛んでいく。
ふぅっと息を吐き、一旦気持ちを落ち着かせる。
そして静かに一歩ずつ、逸る気持ちを抑えてゆっくりと書棚へ近づく。
カラフルな表紙やタイトルが目に飛び込んでくるにつれ、ドキドキと心拍が上がる。
わぁ~!
私にとってそこは、
様々な喜怒哀楽や果てしない旅や冒険や、長年の血と汗と涙の結晶、数知れぬ叡智や
物語が詰まっている、まさにワンダーランドだ。
新刊、文庫本、絵本コーナーに、雑誌コーナー、雑貨コーナーにいたるまで、
魅力的なタイトル、表紙、POPが私を魅了してくる。
…わー!あの作家さんの新作が出てるじゃん!
…これ、面白そう!
…表紙きれい~。
…紙質が好き~。
…あぁ、帯だけで泣ける。
…次はこんな趣味を持ってみようかしら?
…癒される~。
各コーナーでいちいち感動する。
大きな書店では、用もないのに専門書のコーナーなどにも行ってみたりする。
曲がった背筋を伸ばしたりなんかして、音楽家になったり科学者になったり、
ちょっと”出来る人”の気分を味わう。
―― はぁ~。
ウットリ。
誘惑が多すぎるため、いつもは欲しいものがある時にしか行かないようにしている
のだが、
お休み宣言をしてうっかり足を踏み入れると、
油断した虫が食虫植物から養分を吸い取られるかの如く、魂が吸い取られていくのだ。
最近の本屋はカフェなども併設されて、おしゃれ空間として、コーヒー片手に読書する
おしゃれな方々を見かけるようになった。
私にはまだハードルが高すぎるため、そそくさと通り過ぎるのだが、
いつかアトラクションとして体験してみたいものだ。
夢の世界。
私にとって本屋とは、そんな場所だ。
ほぉ~。
へぇ~。
周囲の目を気にしつつも、ニヤニヤしながら本棚に張り付く。
そしていつの間にか数冊小脇に抱えていたりする。
目につく全てのコーナーに吸い寄せられ、
時間を忘れて夢の世界を堪能する。
すると、ふと気づいた。
「今、何時?」
時計を見る。
午後4時45分。
もうすぐ2時間経つじゃん。
あと15分しかない…
帰ったらまた、家事に仕事に、現実の日々だ。
しっかり楽しまなきゃ。
よし、
次はどのコーナーへいこうかなぁ、
と思ったその時、
――んん?
突然、寒気がし、お腹のあたりに違和感を覚える。
お腹をさすってみる。
…いや。大丈夫。気のせいだ。
本棚に視線を戻す。
しばらくすると、また気配を感じる。
…いやいや、気のせい、気のせい。
目の前にはとびきり楽しい本が並んでいる。
せっかく来たんだ。もうちょっと。もうちょっとだけ。
…でも。
――うぅぅ。
やっぱりダメ、か…?
ダメ…なのか?
ぎゅっと目をつぶる。
あいつだ。
”あいつ”がやってきたのだ。
目の前の背表紙に集中しようとするが、
強力に意識が持っていかれる。
――うぅぅ。
もはや、素敵なヒーリングミュージックも耳に入らない
――うむむむ。
背表紙を読もうとするが、目に入らない。
…そんなぁ…
せっかく…
せっかく作った時間なのに…!
有休をとって、家事もぜんぶ終わらせて、
やっと作った2時間だったのに…!
…でも………
も、もうだめだ…。
本を棚に戻し、天井付近の案内板を探す。
早く!早く!
急ぎ向かったのは、
そう。トイレ。
急いで座り、安堵する。
本屋に来るたび、いつもこうだ。
今日こそ、今日こそ負けないといつも思うのに、
結局いつも…
敗北。
また負けちゃった……
トイレから出ると、ちょうど午後5時。
夢の時間は、終わりを告げた。
昔テレビで、人はどんな時どんな場所で便意をもよおすのか?の実験をした
番組があった。
それによると、本屋は高確率で”もよおす場所”とのことだった。
理由は、インクの香りだったと思う。
私はまちがいなく当てはまるよね…。
手を洗い、トイレの外へ出る。
そこにはさっきまで自分もいたはずのワンダーランドが、別世界のように広がっていた。
死んだ魚のような目で見つめる私。
…いや!
諦めるのはまだ早い!
…次こそは!
次こそは絶対に勝ってみせる!
いつか、夢の時間を邪魔されずに過ごしたい!
そんなリベンジの炎を燃やして、私はワンダーランドを背にした。