ふたつの針の間で

家族

 
 
 
「あとでやる。」
 
 
 
 
頼みごとをすると、夫はいつもそう言う。
 
 
 
 
「今やってほしいんだけど。」
 
 
 
 
その言葉を、飲み込んだ。
 
 
 
 
喧嘩はしたくない。
 
 
 
 
でも私は、夫のこの言葉が苦手だった。
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ある日の夕食後。
 
 
 
シンクには泡のついた皿が重なり、
 
 
 
洗濯機が終了を知らせるピーッという音が短く鳴った。
 
 
 
 
私はその音を合図みたいに受け取る。
 
 
 
 
ここから先は、順番が決まっている。
 
 
 
 
食器を片付けて、
 
 
 
洗濯物を干して、
 
 
 
それからようやく休む。
 
 
 
 
頭の中では、やることがすでに並んでいる。
 
 
 
 
だから私はリビングに向かった。
 
 
 
 
「洗濯物、お願いしてもいい?」
 
 
 
 
夫はソファに深く沈み込み、スマホを見ていた。
 
 
 
 
 
視線は画面から離れないまま。
 
 
 
 
 
「あとでやる。」
 
 
 
 
 
聞き慣れた返事だった。
 
 
 
 
 
私は一度、手を止める。
 
 
 
 
 
洗濯物は、今なら五分で終わる。
 
 
 
 
 
あとに回すほどの量でもない。
 
 
 
 
 
「あとでって、いつ?」
 
 
 
 
 
少しだけ強くなった声に、自分で気づく。
 
 
 
 
 
夫はようやく少しだけ視線を上げた。
 
 
 
 
 
「んー、あとで。」
 
 
 
 
 
「だから、いつ?」
 
 
 
 
 
「んー、今日中。」
 
 
 
 
 
私は小さく息を吐いた。
 
 
 
 
 
 
今日中ならいい、という問題じゃない。
 
 
 
 
 
今じゃないと、私の中では落ち着かない。
 
 
 
 
 
洗濯カゴが、やけに重たく見えた。
 
 
 
 
 
 
夫婦になってから、このやり取りは何度も繰り返してきた。
 
 
 
 
 
私は、やることを先に終わらせてから休みたい。
 
 
 
 
 
家事が残っていると、頭の片隅がずっとざわつく。
 
 
 
 
 
だから疲れていても、まず動く。
 
 
 
 
 
終わらせて、ようやく安心できる。
 
 
 
 
 
 
一方で、夫は違った。
 
 
 
 
まず休む。
 
 
 
 
ソファに横になり、スマホを見たり、目を閉じたりする。
 
 
 
 
 
そのあとで、ゆっくり動き出す。
 
 
 
 
 
私はその順番が、どうしても理解できなかった。
 
 
 
 
 
 
「今やれば五分で終わるのに」
 
 
 
 
 
そう思ってしまう。 
 
 
 
 
 
しかも夫の「あとで」は、ときどきそのまま消えていく。
 
 
 
 
 
今日中と言ったのに、何も起こらないまま一日が終わることもある。
 
 
 
 
 
そのたびに私は思う。
 
 
 
 
 
「ほら、やっぱり」
 
 
 
 
「今やればよかったのに」
  
 
 
 
「私がやった方が早い」
 
 
 
 
そんなことを何度も繰り返していた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そんなある日。
 
 
 
私は仕事が早く終わり、先に帰宅していた。
 
 
 
 
乾いた洗濯物を畳みながら時計を見る。
 
  
 
 
 
もうすぐ夫が帰ってくる時間だ。
 
 
 
 
 
ガチャッ。
 
 
 
 
玄関のドアが開く音がした。
 
 
 
 
「おかえり!」
 
 
 
 
 
そう声をかけると、
 
 
 
 
 
「ただいまー……」
 
 
 
 
 
力の抜けた声が返ってくる。
 
  
 
 
 
 
夫は上着を脱ぎ、そのままソファに倒れ込んだ。
 
 
 
 
 
 
私は洗濯カゴを見ながら聞いた。
 
 
 
 
 
「洗濯、回してくれる?」
 
 
 
 
 
夫は目を閉じたまま言う。
 
 
 
 
 
「ちょっと疲れた。あとでやる。」
 
 
 
 
 
 
私は思わず眉をひそめた。
 
 
 
 
 
 
…私だって疲れてるんだけど!?
 
 
 
 
 
小さく息を吐き、自分で洗濯機を回しに行く。
 
 
 
 
 
キッチンに戻り、夕飯の支度を始めた。
 
 
 
 
 
私は横目で夫を見る。
 
 
 
 
 
五分。
 
 
 
十分。
 
 
 
 
まだソファから動かない。
 
 
 
 
 
 
「今日もだめか…」
 
 
 
 
 
そう思ったとき。
 
 
 

 
「…あれ?」
 
 
 
 
夫の手元に目がいった。
 
 
 
 
スマホを手に持っている。
 
 
 
 
それはいつもと同じなのに・・・
 
 
 
 
 
指が動いてない。
 
   
 
 
 
画面を見ているようで、天井をみている。
 
 
 
 
 
 
…え、横になってるだけ?
 
 
 
 
 
 
 
「どうせ、ツムツムしてるんでしょ?」
 
 
 
 
 
 
そう思っていたのに、違ったんだ・・・。
 
 
 
 
 
私は少しだけ戸惑った。
 
 
 
 
 
サボっていると思っていたのに、
 
 
 
 
そう決めつけるには何かが違う気がした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
その日の夕食後、いつも通り夫に声をかける。
 
 
 
 
 
「洗濯物、お願いしてもいい?」
 
 
 
 
 
「うん、あとでやる。」
 
 
 
 
 
返ってくるのは、いつもと同じ返事。
 
 
 
 
 
変わらず夫は、すぐには動かない。
 
 
 
 
 
 
だから、もうひとつ聞いてみた。
 
 
 
 
 
「わかった。何時にやる?」
 
 
 
 
 
すると夫は、
 
 
 
 
「んー、◯時。」 
 
 
 
 
 
そう答えた。
 
 
 
 
 
ほんとかよ・・・。
 
 
 
 
 
半分信じていない。
 
 
 
 
 
それでも、期待も込めて待つことにした。
 
 
 
 
 
その時間までは、私は手を出さない。
 
 
 
 
 
 
____あぁー!そわそわする…!
 
 
 
 
 
 
何度も時計を見る。
 
 
 
 
 
 
「まだかな。」
 
 
 
 
「本当にやるのかな。」
 
 
 
 
「私がやってしまおうか。」
 
 
 
 
 
そんなことばかり考えていると、
 
  
 
 
 
時計の針は約束の時間を指す。
 
 
 
 
 
夫は時計を確認し、スッとソファから立ち上がった。
 
 
 
 
 
 
…おぉ、動いた。
 
 
 
 
 
時間決めれば動けるじゃん。
 
 
 
 
 
 
新しい発見だった。
 
 
 
 
 
その日を境に、私は時間を聞くようになった。
 
 
 
 
「何時にやる?」
 
 
 
 
「◯時。」
 
 
 
 
夫も、以前より動くようになった。
 
 
 
 
 
 
 
 
ある日の夕食後。
 
 
 
私がお皿を洗っていると、
 
 
 
「洗濯物やっておくね。」
 
 
 
と夫が立ち上がる。
 
 
 
 
「あ、珍しい。」
 
 
 
 
「いつもはすぐ動かないのに。」
 
 
 
 
なんだかちょっと、嬉しかった。
 
 
 
 
 
 
私たちは、時計の針が重なるみたいに、
 
 
 
ごくたまにタイミングが合う。
 
 
 
 
 
それからは、
 
 
 
「まあ、いっか。」
 
 
 
と思える日が増えた。
 
 
 
 
 
もちろん、完全に待てるようになったわけではない。
 
 
 
 
今でも本当は、すぐにやってほしいと思っている。
 
 
 
 
 
それはたぶん、これからも変わらない。
 
 
 
 
 
時計の針がぴたりと重なる時間は、長くは続かない。
  
 
 
 
 
すぐにまた、ずれてしまう。
 
 
 
 
 
 
それでも・・・
 
 
 
 
 
たまに重なる瞬間があることを、私は知っている。
 
 
 
 
 
だから今日も、
 
 
 
「まあ、いっか。」
 
 
 
と少しだけ思える。
 
 
 
 
 
ふたつの針の間で、今日も私たちは生きている。
 
 
 
 

看護師×ライバー×ライター。 奨学金の返済に苦労し、さまざまなジャンルのお仕事に挑戦しました。 恋愛、お金、人間関係。今、悩んでいるあなたに、そっと寄り添えるエッセイをお届けできたらと思います。

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