「おうちでも練習するようにお伝えしていたんですが」
と、先生は責めるでも無く言った。
一学期末の個別懇談会の時だった。
2年2組の教室は、私と先生の二人だけ。
先生の話は、かけ算の九九暗唱テストについて。
クラスの大半は9の段まで合格したらしい。
けれども、うちの長女はまだ3の段も言えてないというのだ。
「ええっ、すいません」
と、私は答える。
先生に家での練習状況を聞かれたが、私は全く見てやっていなかった。
私は心の中で小さく縮こまっていた。
そして、帰り道。
歩きながら考える。
私は、どこかで長女の事を利口な子だと思っていた。
人の話をよく聞き、言われたことはきちんと守る。
放っておいても大丈夫。
そんな根拠もない思い込みを抱いていた。
どうして、かけ算の九九でつまずくのかな?
ただの暗記なのに。
一人では難しかったんだ。
私は、朝は早くから家にいないし、夜も遅くまで帰らない。
私がちょっと見てやれば良かったのに…..
その日家に帰って、私は娘に聞いてみた。
「あんたちょっと、かけ算の九九つまづいてるんだって」
「うん」
と、娘は気まずそうにいった。
そうして、夏休みが始まると同時に、私は覚悟を決めた。
まず、家中に掛け算の九九を書いた紙を貼った。
トイレ、風呂、子ども部屋、リビング。
九九の張り紙を見て、家族は
「何じゃこれ?」とか、「何なん?」とか言った。
「かけ算の九九覚えるのに。うちだけまだやから。」と、私が答える。
「そうなん?そらあかん」と、家族も言ってくれた。
そして私は、娘に3つの約束ごとを課した。
「トイレに入ったら、練習している段を最後まで言ってから出てきてね。」
「お風呂でつかりながら、練習している段を言うのよ」
リビングでは、
「一日一回、言えるところまでテストをします。」
長女は最初、私が付きまとうと困ったような顔をした。
長女の九九がつまずくと、トイレ渋滞が起こることもしばしばあった。
そんなとき、娘は恥ずかしくて泣きそうになったりもしたが、逃げることはなかった。
つまずいていた3の段は、緊張感と特訓の甲斐あってか、2日程経ってようやく覚えて、最後まで言えるようになった。
「言えたやん」
というと、長女は、にこっと笑った。
長女が最初の壁を突破した。
家族皆で喜びあった。
「この調子で行こう」
と、私が拳を挙げると、娘も真似をした。
4の段は、後半が難しい。
4×7=28、4×8=32、4×9=36。
そこを覚えて合格。
5の段は、5ずつ飛ぶので楽だった。
最後が5か0なのを覚えて合格。
ここまでは早かった。
しかし、6の段7の段辺りから、急に速度が落ちる。
「7×3=21に7たしていくのよ。7たして28。7×4=28。それに7たして35。」
暗記といっても、倍々になる意味を忘れてしまいがちのようだった。
8の段は、答えが大きい数字になるので難しく感じる。
8×5=40。
そこから、48、56、64、72。
9の段も、54、63、72、81。
2年生にとっては大きな数字だった。
「わからなかったら反対に言ってみるのよ。9×7だったら、7×9=63みたいに。」
「9×7=63、9×8=72、9×9=81」
と、長女は9の段迄言えるようになった。
「やったー」
娘は、笑顔をキラキラさせて、とてもよろこんだ。
そうして、私はかけ算の九九の貼り紙を剥がしたのだった。
お盆を迎える頃には、9の段まで、全てすらすら言えるようになっていた。
ほっとしたと同時に、胸の奥に反省が広がった。
クラスの皆んなと同じペースで見てあげていたら、長女は、嫌な思いをしなくて済んでいた筈だ。
9の段まで言えた時のあの笑顔。
ずっと苦しんでいたことは明白。
娘はこれまでずっと親に頼らず、自分で解決ばっかりしていたんだ。
娘にとっては、そんな環境だったのだろう。
誰にも頼ることができない。
そう思わせていたことを、申し訳なく思った。
その後も、娘は、何でも一人で解決しがちだったが、なるべく家族が応援するよう気をつけるようになった。
先生からの一言は衝撃だったが、おかげで、私と家族に、反省と気づきをさせてくれた。
その夏休みは、工作も、自由研究も家族皆んなが協力して、楽しく頑張れた。
翌年、のんびり屋の次女が小学二年生になった。
少し身構えていたが、次女は特に問題もなく、自然に九九を覚えていった。
拍子抜けするほどだった。
ある日、次女がぽつりと言った。
「お姉ちゃんの時、ママ怖かったから」
私は言葉を失った。
そんなふうに見えていたのか、と。
次女は続けて、
「でもね、お姉ちゃんが手伝ってくれた」と、少し誇らしげに話した。
「そうなん。」
あの夏は、長女にとっては厳しい時間だったかもしれない。
でも、その経験が、妹を支える力にもなっていたのだ。
あの夏の必死さと後悔は、今も私の中に、静かに残っている。