「お母さん、死なないで――」
幼い私は毎晩、布団をぎゅっと握り、そう呟くことしかできなかった…。
夜中になると家中に響く、
ドッドッドッ――
という重苦しい機械音。
それと…
ゴホッ…ゲホゲホッ…
止まらない母の乾いた咳。
声に出して「大丈夫?」なんて、とても聞けなかった…。
明らかに大丈夫じゃない母を前に、その言葉の無力さを、子供なりにわかっていた。
だから、私は何度も…
「死なないで」と繰り返すことしかできなかった。
母の喘息は、私を妊娠している時に発症したらしい。
私が物心ついた頃には、もう毎晩のように発作が起きていた。
夜中、
ドッドッドッ――
という機械音で目が覚める。
リビングに行くと、暗闇の中で母が座っていた。
顔は青白く、肩が激しく上下している。
太いホースの先から白い煙が出ていて、
それを母が必死に吸い込んでいる。
「ゼー…ゼー…」
苦しそうな呼吸音。
ゴホッ…ゲホゲホッ…
止まらない乾いた咳。
母の背中を、父がさすっている。
私は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
「…大丈夫?」
そんな言葉、とても言えなかった…。
だって、明らかに大丈夫じゃないのがわかる。
それでも、母の発作が治まらない日は、父に支えられて夜間病院へ向かっていた。
玄関で靴を履く母の背中。
車に乗り込む母。
暗闇に消えていく車。
「このまま帰ってこなかったらどうしよう…」
部屋に戻っても、眠れなかった。
ドッドッドッ――
という機械音が頭の中で鳴り続けている。
母の荒い呼吸。
ゲホゲホという咳。
白い煙。
青白い顔。
全部が、「死」を連想させた。
「…お母さん、死なないで」
私はただ、布団の中で震えながら、何度も何度も呟くしかなかった。
朝になって、疲れ切った顔の母が帰ってくる。
――ああ、今日も生きてた。
そう思うと、涙が出た。
でも、次の夜にはまた…
ドッドッドッ――
機械音が始まる。
そんな日々が、何年も続いた。
でもそんな日々も、やがて少しずつ変わっていった。
中学生になった頃、ふと思った。
「あれ…最近吸入器の音、聞いてないな」
家のどこにも見あたらない…。
そういえば母の発作も、めっきり減っていた。
夜間病院へ行くこともなくなっていた。
…お母さん、元気になったんだ。
「…よかった」
当時の私はそう思っていた。
だから、その裏で母がどれだけ努力していたのか、まったく気づいていなかった。
それから大人になって、母との会話で真実を知った。
「お母さんね、毎晩のようにあなたに『死なないで』って言われて…変わらなきゃと思ったのよねー」
「…えっ?あれ聞こえてたの?」
「聞こえてたわよー」
と笑う母の、まさかの告白だった。
幼い自分の声が、母を動かしていたなんて。
…思いもしなかった。
ずっと家族のために、子供達のためにと、自分のことは後回しにして頑張ってきた母。
でも、それが結果的に子供に辛い思いをさせていると気づく、きっかけになったのだと言う…。
「こりゃ元気にならなきゃ、喘息治さなきゃってね」
母は仕事を在宅に切り替え、生活改善に努めたのだという。
「料理とか健康とかも勉強したわよー」
当時はただ、母が家にいるようになって嬉しかった。
発作が減って、本当に良かったと思っていた。
その裏に、母のこんな思いと努力があったなんて。
まったく知らなかった…。
今の母を見ていると、喘息だったなんて忘れるほどだ。
「そう言えば喘息だったねー私っ!」
うるさいぐらい大きな声で、笑い飛ばしている。
週末になると、兄と一緒に孫たちに会いに来る母。
一日中、孫たちと遊んで公園を走り回っている。
その姿を見ると、
「…死なないで」と言っていたのが嘘のようだ。
「…殺しても死ななそうだよな」
ふと兄が、ちょっと呆れた声で笑った。
「殺しても」なんてすごい言葉だが、私にはこれが褒め言葉に聞こえて笑ってしまった。
「なにそれー」
大笑いする母も、まんざらでもなさそうだ。
あの時の「死なないで」は、確かに届いていた。
今、母は本当に元気だ。