おじいちゃんが微笑む先に

2026.07.16
生活

その敵は、予想を遥かに超えて手強かった。
 
 
だが私は諦めなかった。
 
 
これは、
 
 
苦戦を強いられるも、
 
 
何度も繰り出される猛攻に挑みつづけた、「あくなき戦い」の物語である。
 
 
 
 
「わーっ!ちょっと待ってください!」
 
 
 
私は思わず叫び、その方の背中に手を当てて動きを止めた。
 
 
 
その方が座ろうとされている先に、今まさに産み落とされたばかりの茶色い塊があった。
 
 
それはまるで、あの大人気ゲームに登場するスライムのよう。
 
 
スライムが鎮座しているのは、便座。
 
 
その方は、今まさに、それをお尻で踏みつぶそうとしていたのだ。
 
  
 
背中の主は、御年100歳になられるおじいちゃん。
 
 
私はその方をケアする介護職員。
 
 
 
 
――それをお尻で潰してはいけません――!
 
 
 
心の中で叫び、私はすばやくスライムを取り除いた。
 
 
 
「どうぞ~、お座りくださ~い。」
 
 
 
何事もなかったかのように、にこやかに微笑む。
 
 
セーフ!
 
 
ホッとして、用を足されるのをその場を離れて待った。
 
 
 
「終わられましたか~?」
 
 
 
ほどなくして再訪問する。
 
 
ご自身でお尻を拭かれ、ご自身の手に持ったトイレットペーパーについているものを
 
 
じーっと眺めておられるところだった。
 
 
 
――いや、眺めてないで早く捨ててくれ。
   
 
 
そんな本音は微塵も見せず、
 
 
 
「私がお手伝いしますよ~。」
 
 
 
ペーパーを回収。ふとおじいちゃんの手を見ると…。
 
 
 
ノーン ‼
 
 
 
手にべっとりと変形したスライムが ‼
 
 
 
「ちょっ、ちょっと待ってくださーい!」と小さく叫ぶ。
 
 
 
急いで丁寧に手を拭き上げる。
 
 
ひとかけらも残してはいけない。
 
 
 
―― よし、これで大丈夫。
 
 
 
あとは、お尻をキレイに拭いて、下着とズボンを上げるだけだ。
 
 
 
その時、廊下にナースコールの音が響き渡った。
 
 
――え? 今⁈
 
 
焦る。
 
 
でももう一人、隣のフロアにスタッフがいる。手が空いたら来てくれるかもしれない。
 
 
落ち着け、落ち着け。
 
 
 
気を取り直して、お尻を拭き、下着に手をかける。
 
 
 
すると、視界の端に「茶色い影」が見えた気が…。
 
 
 
恐る恐るそちらに目をやる。
 
 
 
あ… あー…!
 
 
 
下着の隙間に新たなスライムがいるではないか!
 
 
 
下着を変えるためには、ズボンと”ももひき”を脱いでいただかなければならない。
 
 
 
「もう一度お座りくださいねぇ。」
 
 
「失礼しまーす。」
  
  
 
ズボンに手をかける。
 
 
 
すると…。
 
 
 
オーマイガー! ここにもかー!
 
 
 
ズボンのウエストゴムあたりに、ぴとっとくっついている。
 
 
 
さらに追い打ちがかかる。
 
 
 
――なぬー‼ 何故そこにー⁈
 
 
 
見れば、”ももひき”の前側にもスライムがべったりくっついているのだ。
 
 
 
ムムム…。
 
 
 
気がつけば脇の下は汗でびっしょりだ。
 
 
 
そんな私をよそに、おじいちゃんは、涼しい顔でにこにこ笑っておられる。
 
 
 
さすが、100年も生きておられると肝が据わっているなぁ。
 
 
 
感心しつつ、何度目かの気を取り直して、
 
 
新しい下着、ももひき、ズボンに足を通していただく。
 
 
 
「さあ、立ちましょう。」
 
 
 
いよいよ最終段階、キレイな下着、ももひき、ズボンを上げ、
 
 
肌着をズボンに入れようとしたその時!
 
 
 
ノーン‼
 
 
 
肌着の裾に、スライムが…
 
 
 
お前ここにもかー!
 
 
 
ナースコールは鳴り続けている。
 
 
助っ人は来ない。
 
 
 
――待って待ってー!
 
――なんでだよー、なんでこんな時に重なるんだよー。
 
 
 
焦る焦る。
 
 
額に汗がにじむ。
 
 
しかし焦りを見せてはいけない。
 
 
 
「肌着も変えちゃいましょうね~。」
 
 
 
穏やかに言いながらTシャツを脱いでいただこうとしたその時、
 
 
 
――ん?
 
 
 
視界の端に、またもや茶色のものがよぎったような…
 
 
 
ここにもかーーー‼‼
 
 
 
なぜか、一番外側に着ておられた、白地に紺のボーダーTシャツにまでスライムの魔の手が
 
及んでいた…。
 
 
 
・・・
  
 
  
――もう、いないよね…?
 
 
何度も入念にチェックする。
 
 
 
――よーし!大丈夫‼
 
 
 
やった。
 
 
私はやり切った。
 
 
私は、全てのスライムとの戦いに勝ったのだ‼
 
 
 
 
「お疲れさまでした~。」
 
 
 
汗をぬぐい、
 
 
晴れ晴れとした気持ちで、おじいちゃんに伝えた。
 
 
おじいちゃんは、にこにこしながら杖をついて立っておられる。
 
 
歩き出そうとする足を止め、ひと言、こう仰った。
 
 
 
「ありがとね~。」
 
 
……
 
 
……
 
 
 
わぁ……
 
 
……
 
 
 
—— 仕事だから、やって当たり前。
 
 
 
 
どんな業務も、そう思ってこなしてきた。
 
 
「ありがとう」と言われることがあっても、仕事だからと、さらっと受け流してきた。
 
 
 
…だけど、今日は。
 
 
 
今日は私、本当に頑張ったよね…!
 
 
 
「ありがとう」が、汗だくの体にじわ〜っと沁みていくのを感じた。
 
 
 
「いえいえ…!!」
 
 
 
こちらこそ、ありがとうございます!!
 
 
 
杖をつくおじいちゃんの反対側の手を引いて、ベッドへ送り届ける。
 
 
ベッドに戻り、穏やかに微笑むおじいちゃんに見送られながら、私はナースコールの発信元へと急いだ。
 

50代。道端の小さな花をしゃがみ込んでよく眺めています。ふっと肩の力が力が抜けたり、ほっこりしたり、そんなことをささやかなエッセイにしてお届けできたら、と思っています。

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