空に近い学校

2026.07.06
つれづれ

「お空に帰りたい。」
 
 
 
ある夏の日。
 
 
 
賑やかな夏祭り会場の外で、夜空を見上げながら10歳の息子は泣いた。
 
 
まだ10歳の子が、死を願ったのだ。
 
 
 
夏祭りに行きたい、という願いを叶えようと出かけたその会場で、
 
 
その小さな心に、「絶望」という感情を生まれさせてしまった。
 
 
 
 
それは、忘れもしないあの日から始まった。
 
 
「頭痛い」と言って学校を休んでいた息子。
 
 
午後になって、
 
 
「頭痛くなくなったから遊ぶ!」
 
 
と言うので、チラシで作ったボールとバットで私と野球をして遊び始めた。
 
 
いつものように楽しく遊んで、ひと休みしようと座ったその時、
 
 
 
「うわーーー‼」
 
 
 
突然、狂ったように息子が叫んだ。 
 
 
 
「お母さんがおらん!お母さんがおらん!お母さんが殺される!」
 
 
 
何が起きたか分からない。
 
 
 
「ここにおるよ!ここにおるよ!」
 
 
私は夢中で息子を抱きしめた。
 
 
 
それでも息子は叫び続ける。
 
 
 
―― 目の前にいるのに、抱きしめているのに!なんで!
 
 
このまま狂って死んじゃうんじゃないか。
 
 
体中の震えを抑え、恐怖におののきながら、息子を連れて病院へ駆け込んだ。
 
 
 
叫び続ける息子。
 
 
壁を蹴る、殴る。
 
 
壁に穴を開けてしまいそうだ。
 
 
 
「お願い!お願い!神様助けて!」私は泣きながら神様に祈った。
 
 
 
安定剤の注射を打たれ、大人4人がかりで押さえつけられ、4時間かかって眠りについた。
 
 
 
私は目の前で起こったことが信じられなかった。
 
 
 
混乱したまま、眠った息子をおぶって車に乗せ帰宅した。
 
 
 
息子の寝顔は穏やかだった。
 
 
きっと悪い夢を見たんだ。明日になったら元通りだ。
 
 
 
 
 
 
ところが、翌日になっても悪夢は覚めなかった。
 
 
息子の昼夜は逆転し、常に気を紛らわせていないと、叫び暴れ出す。
 
 
息子は学校へ行けなくなった。
 
 
 
 
それから数カ月、
 
 
少し落ち着いてくると、息子はあらゆるものが怖くなった。
 
 
 
閉所、暗所、高所。
 
 
学校はお化け屋敷のように見え、
 
 
「窓の外から誰か怖い顔して覗いてる。」
 
 
「黒い服を着た人が死ねって言ってる。」
 
 
幻聴や幻覚も出た。
 
 
 
 
“統合失調症”
 
 
それが息子の症状についた名前だった。
 
 
「お薬を飲みながら、一生付き合っていく病気です。」
 
 
そう告げられた。
 
 
 
言葉は知ってる。でも、よく呑み込めなかった。
 
 
―― え…?
 
 
喉の奥に何か詰まって言葉にならない。
 
 
―― 息子はこれからどうなるの?
 
 
 
 
 
 
息子の気を晴らすにはどうすれば…。
 
 
 
そうだ!
 
いやな気持ちはビリビリに破っちゃえ!
 
 
 
チラシをビリビリに破って、部屋中にまき散らしてみた。
 
 
 
すると、息子が笑った。
 
 
…笑った‼
 
 
 
先のことはいい。
 
 
とにかく今、この子を笑顔にする!
 
 
今!今!今!
 
 
彼がやりたいことはなんでも叶える!そう決めた。
 
 
 
 
息子が「夏祭りに行きたい。」と言ったのは、そんなある日のこと。
 
 
 
「そっか!じゃあ行こう!」
 
 
 
私たちは地域の夏祭りに出かけた。
 
 
息子の大好きな出店を、賑やかな雰囲気を楽しめるはずだった。
 
 
それなのに――。
 
 
 
 
また、幻聴が聞こえてきてしまったのだ。
 
 
「怖い!怖い!」
 
 
絶望の中に突き落とされてしまった。
 
 
まだ10歳の息子が
 
 
「お空に帰りたい。」
 
 
という。
 
 
私の中で何かが崩れる音がした。
 
 
私はこの子を笑顔にしたかったのに。
 
 
 
 
―― でも、絶対あきらめるもんか。
 
 
 
顔を上げ、私は息子と毎日笑顔を探した。
 
 
 
 
 
「僕、学校ってところに行きたい。」
 
 
「卒業式出てみたい!」
 
 
 
息子がそう言ったのは、15歳になったある日のことだった。
 
 
 
目頭が熱くなる。
 
 
あんなに怖かったのに。
 
 
本当は行きたかったんだよね。
 
 
 
 
私たちはすぐに学校を探した。
 
 
 
 
「僕ここに行きたい。」
 
 
息子が選んだのは、
 
 
「君は君のままでいいんだよ。」
 
 
そう言ってくれる学校だった。
 
 
不登校を経験した子どもたちが多く通う。
 
 
 
“ 空に近い学校 ”
 
 
 
パンフレットの青空に書かれた文字の通り、小高い丘の上に建つ学校。
 
 
街が一望でき、海が見える。
 
 
花火大会では、目の前に花火が上がる。
 
 
 
息子は念願の学校に入学した。
 
 
 
 
休む日も、1時間だけ行ける日もあった。
  
 
自力で行けない日も多かった。
 
 
そんな日は、車で急こう配の坂道を送迎する。
 
 
「心臓破りの坂」を登る途中、息を上げて立ち止まる生徒を追い抜いた。
 
 
「みんながんばってるね。」
 
 
息子がつぶやく。
 
 
息子の中に何かが芽生え始めた。
 
 
諦めそうになる日もあった。
 
 
でも、
 
 
「僕は卒業式に出たいんだ!」
 
 
息子は丘を上り続けた。
 
  
 
 
そして、ついに迎えた高3の3月。
 
 
念願の卒業式。
 
 
卒業式出席は、保育園の卒園式以来だ。
 
 
 
 
そこには、
 
 
満面の笑みで、誇らし気に校歌を歌う息子の姿があった。
 
 
 
 
暴れて、
 
 
恐怖におののき、
 
 
「空に帰りたい」と泣いた息子。
 
 
 
その息子は今、笑顔で校歌を歌っている。
 
 
 
空に近い学校で。
 
 
こんな日がくるなんて。
 
 
 
隣に座っていた人があきれるほど、私は泣いた。
 
 
 
顔を上げると、窓からはきらきらと輝く海が見えた。
 
 
 
その上には青い空が広がり、窓の隙間からは優しい風が吹き込む。
 
 
 
 
 
嵐の日も冷たい風の日も、きっとこの優しい風を感じるためにあったんだ。
 
 
 
 
私はもう一度、涙をぬぐった。
 
 

50代。道端の小さな花をしゃがみ込んでよく眺めています。ふっと肩の力が力が抜けたり、ほっこりしたり、そんなことをささやかなエッセイにしてお届けできたら、と思っています。

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