「お空に帰りたい。」
ある夏の日。
賑やかな夏祭り会場の外で、夜空を見上げながら10歳の息子は泣いた。
まだ10歳の子が、死を願ったのだ。
夏祭りに行きたい、という願いを叶えようと出かけたその会場で、
その小さな心に、「絶望」という感情を生まれさせてしまった。
それは、忘れもしないあの日から始まった。
「頭痛い」と言って学校を休んでいた息子。
午後になって、
「頭痛くなくなったから遊ぶ!」
と言うので、チラシで作ったボールとバットで私と野球をして遊び始めた。
いつものように楽しく遊んで、ひと休みしようと座ったその時、
「うわーーー‼」
突然、狂ったように息子が叫んだ。
「お母さんがおらん!お母さんがおらん!お母さんが殺される!」
何が起きたか分からない。
「ここにおるよ!ここにおるよ!」
私は夢中で息子を抱きしめた。
それでも息子は叫び続ける。
―― 目の前にいるのに、抱きしめているのに!なんで!
このまま狂って死んじゃうんじゃないか。
体中の震えを抑え、恐怖におののきながら、息子を連れて病院へ駆け込んだ。
叫び続ける息子。
壁を蹴る、殴る。
壁に穴を開けてしまいそうだ。
「お願い!お願い!神様助けて!」私は泣きながら神様に祈った。
安定剤の注射を打たれ、大人4人がかりで押さえつけられ、4時間かかって眠りについた。
私は目の前で起こったことが信じられなかった。
混乱したまま、眠った息子をおぶって車に乗せ帰宅した。
息子の寝顔は穏やかだった。
きっと悪い夢を見たんだ。明日になったら元通りだ。
ところが、翌日になっても悪夢は覚めなかった。
息子の昼夜は逆転し、常に気を紛らわせていないと、叫び暴れ出す。
息子は学校へ行けなくなった。
それから数カ月、
少し落ち着いてくると、息子はあらゆるものが怖くなった。
閉所、暗所、高所。
学校はお化け屋敷のように見え、
「窓の外から誰か怖い顔して覗いてる。」
「黒い服を着た人が死ねって言ってる。」
幻聴や幻覚も出た。
“統合失調症”
それが息子の症状についた名前だった。
「お薬を飲みながら、一生付き合っていく病気です。」
そう告げられた。
言葉は知ってる。でも、よく呑み込めなかった。
―― え…?
喉の奥に何か詰まって言葉にならない。
―― 息子はこれからどうなるの?
息子の気を晴らすにはどうすれば…。
そうだ!
いやな気持ちはビリビリに破っちゃえ!
チラシをビリビリに破って、部屋中にまき散らしてみた。
すると、息子が笑った。
…笑った‼
先のことはいい。
とにかく今、この子を笑顔にする!
今!今!今!
彼がやりたいことはなんでも叶える!そう決めた。
息子が「夏祭りに行きたい。」と言ったのは、そんなある日のこと。
「そっか!じゃあ行こう!」
私たちは地域の夏祭りに出かけた。
息子の大好きな出店を、賑やかな雰囲気を楽しめるはずだった。
それなのに――。
また、幻聴が聞こえてきてしまったのだ。
「怖い!怖い!」
絶望の中に突き落とされてしまった。
まだ10歳の息子が
「お空に帰りたい。」
という。
私の中で何かが崩れる音がした。
私はこの子を笑顔にしたかったのに。
―― でも、絶対あきらめるもんか。
顔を上げ、私は息子と毎日笑顔を探した。
「僕、学校ってところに行きたい。」
「卒業式出てみたい!」
息子がそう言ったのは、15歳になったある日のことだった。
目頭が熱くなる。
あんなに怖かったのに。
本当は行きたかったんだよね。
私たちはすぐに学校を探した。
「僕ここに行きたい。」
息子が選んだのは、
「君は君のままでいいんだよ。」
そう言ってくれる学校だった。
不登校を経験した子どもたちが多く通う。
“ 空に近い学校 ”
パンフレットの青空に書かれた文字の通り、小高い丘の上に建つ学校。
街が一望でき、海が見える。
花火大会では、目の前に花火が上がる。
息子は念願の学校に入学した。
休む日も、1時間だけ行ける日もあった。
自力で行けない日も多かった。
そんな日は、車で急こう配の坂道を送迎する。
「心臓破りの坂」を登る途中、息を上げて立ち止まる生徒を追い抜いた。
「みんながんばってるね。」
息子がつぶやく。
息子の中に何かが芽生え始めた。
諦めそうになる日もあった。
でも、
「僕は卒業式に出たいんだ!」
息子は丘を上り続けた。
そして、ついに迎えた高3の3月。
念願の卒業式。
卒業式出席は、保育園の卒園式以来だ。
そこには、
満面の笑みで、誇らし気に校歌を歌う息子の姿があった。
暴れて、
恐怖におののき、
「空に帰りたい」と泣いた息子。
その息子は今、笑顔で校歌を歌っている。
空に近い学校で。
こんな日がくるなんて。
隣に座っていた人があきれるほど、私は泣いた。
顔を上げると、窓からはきらきらと輝く海が見えた。
その上には青い空が広がり、窓の隙間からは優しい風が吹き込む。
嵐の日も冷たい風の日も、きっとこの優しい風を感じるためにあったんだ。
私はもう一度、涙をぬぐった。
空に近い学校