「世が世なら、お前はお姫様なんだぞ!行儀よくしろ!」
「武士は食わねど高楊枝だぞ!気品を持て!」
子どものころ父からよく言われていた。
―― そんなこと言われたって…。
いつの時代の話だよって話だ。
父はマナーにうるさかった。
食事のマナーから言葉遣い、服装、髪型、立ち振る舞いについて厳しく言われた。
しかし父の武士道は、私には浸透しなかった。
いつも怒鳴られて怖かったし、父の顔色は気にはするけど、
鏡でチェックできない立ち振る舞いは、自分では見えないからぶっちゃけ放置。
自分自身の立ち振る舞いが人からどう見えているのかなど、意識することはあまりなかった。
たぶん、背中丸めて歩いている。
たぶん、背中丸めてごはんを食べている。
たぶん、眉間にしわを寄せて買い物している…。
そこに気品は漂わない。
数十年の時を超え、今になってその価値観が変わるとは――。
―――――――
それは、何でもない、天気の良いある日のこと。
信号が赤になり、数台前の車が止まった。
それに倣って私もブレーキを踏む。
ふと何気なく左手の歩道を見ると、くすんだ緑色の塊が視界に飛び込んできた。
――ん?
あ~。
帽子を被っていてわかりにくかったけど、どうやらおばあちゃんのようだ。
カーキ色の帽子にカーキ色のズボン、同じ色の半そでシャツを羽織っている。
ぐっと腰と膝が曲がっていて、小さいキャリーバッグのようなものを後ろ手に引いている。
…んん――??
よ―く見ると、中のTシャツもカーキ色だ。
”全身カーキ”…
―― 林家ペー・パー子のカーキ色バージョンみたい。
とか思いながら見ていると、
そのおばあちゃん、ついっと車道に向きを変え、
私の2台ほど前の車のドライバーにおもむろに頭を下げた。
丸まった背中をさらに丸めて、曲がった膝を更に曲げて、深々と。
―― あら、お上品なお辞儀だわ。
と注目していると、頭が上がり切らないうちに車道に足を踏み出した。
え?
ここ、渡るの?
もう少し行けば横断歩道だよ?
あらあら、大丈夫かなぁ。
おばあちゃんは、ゆっくりと歩き出し…と思った瞬間、
あっ。
走った!
―― おばあちゃんって、足腰弱くてゆっくり歩くんじゃないの?
おおかた信号が変わるのもお構いなしにマイペースで歩くイメージだ。
しかし、予想に反してカーキ色のおばあちゃんは走り出したのだ。
しかも、
ふわっ!
え?
浮いた⁈
自分の目の大きさが倍になったのが分かる。
ふわっ、ふわっ。
浮き上がるたびに、羽織っていたシャツがふわりとなびく。
なんて優雅で軽やかなんだろう!
まるで妖精さんみたい!
膝の曲がった長い足を前へ前へと進め、カーキ色の塊が妖精のように道路を飛んで行く。
ふおお!
羽、生えてる?
羽織ったシャツは羽なのか⁈
カーキ色の妖精さんは、ふわりふわりと飛んでいき、
反対側の歩道へすっと降り立った。
信号はまだ変わっていない。
私は茫然とその後ろ姿を見送った。
ほどなくして信号が青に変わり、車の列は動き出した。
ブーン。
アクセルを踏んでも、私の頭の中はさっきのおばあちゃんのことでいっぱいだ。
何だったんだ、今のは?
ほんの数分の出来事だったのに、私の心を掴んだあのおばあちゃん。
本当に飛んだんだろうか?
いや、さすがにそんなはずはないよな。
でも、本当に妖精さんみたいだった。
上品で丁寧なお辞儀。
軽やかな身のこなし。
素敵だったよねぇ…。
運転しながらうっとりする私。
そして気がつけば、こんなことを考えていた。
―― どうしたらあんな風になれるんだろう。
あのおばあちゃんは、全身カーキでも、腰やひざが曲がっていても、理屈抜きで素敵だった。
―― 私は?
人からどんなふうに見えているのだろうか?
浮かんだワードは、
「ガサツ」
きっとそうだ。
私の背中には、羽ではなくて「ガサツ」って札がついているに違いない。。
思わずその図が頭に浮かぶ。
―― 情けなっ!
まぁねぇ、歩き方だって、食べ方だって、これまで気にしてこなかったもんなぁ。
ふと、口うるさかった父の言葉を思い出す。
『気品を持て』
今までずっとスルーしてきたことを、ちょっと後悔した。
醸し出される品の良さって、
長年にわたって身に着けてこられたものなんだよなぁ、きっと。
私の夢は「可愛いおばあちゃん」になること。
その夢を叶えるべく、今のうちに無意識にでも美しく振る舞えるようにならねば!
ありがとう!カーキ色の妖精さん。
ただね、妖精さんにひと言。
横断歩道を渡った方が安全ですよー。
次はそうしてもらえるよう、心の中でそっと念を送っておこう。