カーキ色の妖精は、道路を飛ぶ

2026.07.07
生活

「世が世なら、お前はお姫様なんだぞ!行儀よくしろ!」

「武士は食わねど高楊枝だぞ!気品を持て!」

子どものころ父からよく言われていた。

―― そんなこと言われたって…。

いつの時代の話だよって話だ。

父はマナーにうるさかった。

食事のマナーから言葉遣い、服装、髪型、立ち振る舞いについて厳しく言われた。

しかし父の武士道は、私には浸透しなかった。

いつも怒鳴られて怖かったし、父の顔色は気にはするけど、

鏡でチェックできない立ち振る舞いは、自分では見えないからぶっちゃけ放置。

自分自身の立ち振る舞いが人からどう見えているのかなど、意識することはあまりなかった。

たぶん、背中丸めて歩いている。

たぶん、背中丸めてごはんを食べている。

たぶん、眉間にしわを寄せて買い物している…。

そこに気品は漂わない。

数十年の時を超え、今になってその価値観が変わるとは――。

―――――――

それは、何でもない、天気の良いある日のこと。

信号が赤になり、数台前の車が止まった。

それに倣って私もブレーキを踏む。

ふと何気なく左手の歩道を見ると、くすんだ緑色の塊が視界に飛び込んできた。

――ん?

あ~。

帽子を被っていてわかりにくかったけど、どうやらおばあちゃんのようだ。

カーキ色の帽子にカーキ色のズボン、同じ色の半そでシャツを羽織っている。

ぐっと腰と膝が曲がっていて、小さいキャリーバッグのようなものを後ろ手に引いている。

…んん――??

よ―く見ると、中のTシャツもカーキ色だ。

”全身カーキ”…

―― 林家ペー・パー子のカーキ色バージョンみたい。

とか思いながら見ていると、

そのおばあちゃん、ついっと車道に向きを変え、

私の2台ほど前の車のドライバーにおもむろに頭を下げた。

丸まった背中をさらに丸めて、曲がった膝を更に曲げて、深々と。

―― あら、お上品なお辞儀だわ。

と注目していると、頭が上がり切らないうちに車道に足を踏み出した。

え?

ここ、渡るの?

もう少し行けば横断歩道だよ?

あらあら、大丈夫かなぁ。

おばあちゃんは、ゆっくりと歩き出し…と思った瞬間、

あっ。

走った!

―― おばあちゃんって、足腰弱くてゆっくり歩くんじゃないの?

おおかた信号が変わるのもお構いなしにマイペースで歩くイメージだ。

しかし、予想に反してカーキ色のおばあちゃんは走り出したのだ。

しかも、

ふわっ!

え?

浮いた⁈

自分の目の大きさが倍になったのが分かる。

ふわっ、ふわっ。

浮き上がるたびに、羽織っていたシャツがふわりとなびく。

なんて優雅で軽やかなんだろう!

まるで妖精さんみたい!

膝の曲がった長い足を前へ前へと進め、カーキ色の塊が妖精のように道路を飛んで行く。

ふおお!

羽、生えてる?

羽織ったシャツは羽なのか⁈

カーキ色の妖精さんは、ふわりふわりと飛んでいき、

反対側の歩道へすっと降り立った。

信号はまだ変わっていない。

私は茫然とその後ろ姿を見送った。

ほどなくして信号が青に変わり、車の列は動き出した。

ブーン。

アクセルを踏んでも、私の頭の中はさっきのおばあちゃんのことでいっぱいだ。

何だったんだ、今のは?

ほんの数分の出来事だったのに、私の心を掴んだあのおばあちゃん。

本当に飛んだんだろうか?

いや、さすがにそんなはずはないよな。

でも、本当に妖精さんみたいだった。

上品で丁寧なお辞儀。

軽やかな身のこなし。

素敵だったよねぇ…。

運転しながらうっとりする私。

そして気がつけば、こんなことを考えていた。

―― どうしたらあんな風になれるんだろう。

あのおばあちゃんは、全身カーキでも、腰やひざが曲がっていても、理屈抜きで素敵だった。

―― 私は?

人からどんなふうに見えているのだろうか?

浮かんだワードは、

「ガサツ」

きっとそうだ。

私の背中には、羽ではなくて「ガサツ」って札がついているに違いない。。

思わずその図が頭に浮かぶ。

―― 情けなっ!

まぁねぇ、歩き方だって、食べ方だって、これまで気にしてこなかったもんなぁ。

ふと、口うるさかった父の言葉を思い出す。

『気品を持て』

今までずっとスルーしてきたことを、ちょっと後悔した。

醸し出される品の良さって、

長年にわたって身に着けてこられたものなんだよなぁ、きっと。

私の夢は「可愛いおばあちゃん」になること。

その夢を叶えるべく、今のうちに無意識にでも美しく振る舞えるようにならねば!

ありがとう!カーキ色の妖精さん。

ただね、妖精さんにひと言。

横断歩道を渡った方が安全ですよー。

次はそうしてもらえるよう、心の中でそっと念を送っておこう。

50代。道端の小さな花をしゃがみ込んでよく眺めています。ふっと肩の力が力が抜けたり、ほっこりしたり、そんなことをささやかなエッセイにしてお届けできたら、と思っています。

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