消えた部屋と、特製ネギだれ  

2026.07.06
家族

 
 
 
 
「私のことなんて、もういらないの?」
 
 
 
 
 
大人になった私が、そんなことを考える日が来るなんて思わなかった。
 
 
 
 
 
 
 

  
 
 
 
 
あれは夏の終わり。
 
  
 
母から一本の電話があった。
 
 
 
 
「家、売ることにしたの。」
 
 
 
 
 
 
 
………え?
 
 
 
 
 
 
 
「時間がある時に、部屋を片付けに来てくれる?」
 
 
  
 
 
私はスマートフォンを耳に当てたまま黙る。
 
 
 
 
 
売る?
 
 
今、売るって言った?

 
 
 
 
「引っ越しは年末かな」
 
 
 
 
母の声はいつも通り明るい。
 
  
 
 
私はカレンダーを見つめた。
 
 
 
 
引っ越しは年末。
 
 
売却。
 
 
片付け。
 
 
 
 
全部もう決まっていた。
 
 
 
 
 
私だけが取り残されたようだった。
 
 
 
 
「…そっか。わかった。」

 
 
 
そう答えて通話を切る。
 
 
 
 
真っ暗になったスマートフォンを見つめ、しばらくそのまま動けなかった。
 
 
 
 
 
年末が近づくにつれ、廊下には段ボールが積まれていった。

 

 
いつも置いてあった棚はなくなり、
 
 
 
壁には四角く日焼けの跡だけが残っている。

 
 
 
 
 
「あぁ、本当に行ってしまうんだ…」
 
 
 
 
 
その景色を見た瞬間、実感した。
 
 
 
 
 
 
引っ越し前、私は最後に家の中を歩き回った。
 
 
 
 
 
何度も家族で食事をしたリビング。
 
 
 
弟たちと笑い合った和室。
 
 
 
そして、一番長く過ごした自分の部屋。
 
 
 
階段の途中にあるお気に入りの窓も、目に焼き付けるように眺めた。
 
 
 
 
 
 
家を出るとき、振り返る。
 
 
 
夕暮れに染まる家は、いつもより少し遠く見えた。

 
 
 
 
 
「いままでありがとう」
 
 
 
 
 
心の中でそうつぶやき、車に乗り込んだ。
 
 
 
 
 
 
 
年が明け、家族は新しい家で暮らし始めていた。
 
 
 
 
 
初めて訪れた新居は、とても綺麗だった。
 
 
 
 
 
大理石の家具も、落ち着いた色合いの内装も、私の好みにぴったりだ。
 
 
 
 
 
いつも通りご飯を食べ、お風呂に入る。
 
 
 
 
 
 
 
だけど、なぜか落ち着かない。
 
 
 
 
 
 
私は家の中を見回した。
 
 
 
 
 
 
 
 
あ…。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
思い出のものが、なにひとつない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
弟たちとさんざん遊んで、肘置きの形が崩れたソファーは?
 
 
 
みんなで食卓を囲んだ木目調のダイニングテーブルは?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
あれ、全部捨てちゃったんだ…。
 
 
 
 
 
 
 
 

「二階もみる?」
 
 
 
母の言葉に小さく頷き、二階に上がった。
 
 
 
弟の部屋。
 
 
両親の寝室。
 
 
ウォークインクローゼット。
 
 
 
 
案内はそこで終わった。
 
 
 
 
 
廊下を見渡す。
 
 
 
 
 
もう一度見渡す。
 
 
 
 
 
けれど、空いている部屋はなかった。
 
 
 
 
 
その時になって、ようやく気づく。
 
 
 
 
 
新しい家には、私の部屋がないのだと。
 
 
 
 
 
寝る前に案内された部屋は、四畳ほどの小さな物置き部屋だった。
 
 

そこにぽつんと、ベッドだけが置かれている。
 
 
  
 
「ごめんね、泊まる時はここ使ってね」
 
 
 
 
母はそう言って階段を降りて行った。
 
 
  
 
 
 
 
荷物を床に置き、部屋を見渡す。
 
 
 
昔の部屋には勉強机も、本棚も、お気に入りのカーテンもあった。
 
 
 
けれど、この部屋には何もない。
 
 
 
私の思い出も、私らしさも。
 
 
 
 
私がここで暮らしていた証は、この家にはひとつも残っていなかった。
 
 
 
 
結婚して一年。
 
 
 
もうこの家で暮らしていないことは分かっている。
 

 
 
それでも、いつ帰ってきても、私の部屋は残っていると信じていた。
 
 
 
だけどもう、この家のどこにも私の居場所は見当たらなかった。
 
 
 
 
暗い物置き部屋で、静かに呟く。
 
  
 
 
 
 
 
「私のことなんて、もういらないの?」
 
 
 
 

 
 
子供みたいだ。
 
 
 
誰もそんなことは言っていない。
 
 
 
 
 
それなのに、まるで「お前はもう家族じゃない」と言われたような気がした。
 
 
 
 
 
布団を頭までかぶる。
 
 
 
暗闇の中で目を閉じても、涙が止まらなかった。
 
 
 
嫌われたわけじゃない。
 
 
 
追い出されたわけでもない。
 
 
 
それなのに、胸の奥だけがずっと痛かった。
 
 
 
枕に顔を押しつける。
  
 
声が漏れないように。
 
 
 
 
大人になってから、あんなふうに泣くのは久しぶりだった。
 
 
 
 
 
 
それから私は、「ただいま」が言えなくなった。
 
 
 
用があって実家へ行くことはあった。
 
 
 
けれど、玄関のドアを開くたびに、言葉が喉で止まる。
 
 
 
「…おじゃまします。」
 
 
 
気づけば、そう口にしていた。
 
 
 
用が済んだらすぐに帰る。
 
 
 
ここは、私の家ではないのだから。
 
 
 
 
 
 

ある日、用事があって実家へ向かった。
 
 
 
玄関を開けると、母はいつものように迎えてくれた。
 
 
「おかえり!」
 
 
台所には、私の大好物の唐揚げが並んでいた。
 
 
 
 
「今日はご飯食べていく?」
 
 

「…うん。」
 
 
 
 
久しぶりに、母の唐揚げが食べたいと思った。
 
 
 
「たくさん作ったから食べな」

 

そう言って母が皿に盛りつける。
 
 
 
「いただきます」
 
 
 
そう言って、私は母の作る特製ネギだれをかける。
 
 
 
これが我が家の味。
 
 
 
口に入れると、ネギの香りが鼻から抜ける。
 
 
 
 
「おいしい!」
 
 
 
「よかった。これ好きだったもんね。」
 
 
 
 
母の言葉に、私は箸を止めた。
 

 
 
 
 
 
(お母さん、覚えててくれたんだ…)
 
 
  
 
 
 

私はずっと、勘違いしていた。
 
 
 
もうこの家に、私の居場所はないと思っていた。
 
 
 
けれど、違う。
 
 
 
懐かしいネギだれが、それに気付かせてくれた。
 
 
 
 
 
 

 
今でも、昔の家の前を通るたびに思う。
 
 
 
ここは、私の家だったのに、と。
 
 
 
もうあの頃には戻れない。
 
 
 
けれど、私にはちゃんと居場所がある。
 
 
 
だからたまには、お母さんの唐揚げを食べに帰ろう。
 
 
 
大好きなネギだれを、たくさんかけよう。
 
 
 
その時は、また言えたらいいな。
 
 
 
「ただいま!」
 
 

看護師×ライバー×ライター。 奨学金の返済に苦労し、さまざまなジャンルのお仕事に挑戦しました。 恋愛、お金、人間関係。今、悩んでいるあなたに、そっと寄り添えるエッセイをお届けできたらと思います。

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