「私のことなんて、もういらないの?」
大人になった私が、そんなことを考える日が来るなんて思わなかった。
あれは夏の終わり。
母から一本の電話があった。
「家、売ることにしたの。」
………え?
「時間がある時に、部屋を片付けに来てくれる?」
私はスマートフォンを耳に当てたまま黙る。
売る?
今、売るって言った?
「引っ越しは年末かな」
母の声はいつも通り明るい。
私はカレンダーを見つめた。
引っ越しは年末。
売却。
片付け。
全部もう決まっていた。
私だけが取り残されたようだった。
「…そっか。わかった。」
そう答えて通話を切る。
真っ暗になったスマートフォンを見つめ、しばらくそのまま動けなかった。
年末が近づくにつれ、廊下には段ボールが積まれていった。
いつも置いてあった棚はなくなり、
壁には四角く日焼けの跡だけが残っている。
「あぁ、本当に行ってしまうんだ…」
その景色を見た瞬間、実感した。
引っ越し前、私は最後に家の中を歩き回った。
何度も家族で食事をしたリビング。
弟たちと笑い合った和室。
そして、一番長く過ごした自分の部屋。
階段の途中にあるお気に入りの窓も、目に焼き付けるように眺めた。
家を出るとき、振り返る。
夕暮れに染まる家は、いつもより少し遠く見えた。
「いままでありがとう」
心の中でそうつぶやき、車に乗り込んだ。
年が明け、家族は新しい家で暮らし始めていた。
初めて訪れた新居は、とても綺麗だった。
大理石の家具も、落ち着いた色合いの内装も、私の好みにぴったりだ。
いつも通りご飯を食べ、お風呂に入る。
だけど、なぜか落ち着かない。
私は家の中を見回した。
あ…。
思い出のものが、なにひとつない。
弟たちとさんざん遊んで、肘置きの形が崩れたソファーは?
みんなで食卓を囲んだ木目調のダイニングテーブルは?
あれ、全部捨てちゃったんだ…。
「二階もみる?」
母の言葉に小さく頷き、二階に上がった。
弟の部屋。
両親の寝室。
ウォークインクローゼット。
案内はそこで終わった。
廊下を見渡す。
もう一度見渡す。
けれど、空いている部屋はなかった。
その時になって、ようやく気づく。
新しい家には、私の部屋がないのだと。
寝る前に案内された部屋は、四畳ほどの小さな物置き部屋だった。
そこにぽつんと、ベッドだけが置かれている。
「ごめんね、泊まる時はここ使ってね」
母はそう言って階段を降りて行った。
荷物を床に置き、部屋を見渡す。
昔の部屋には勉強机も、本棚も、お気に入りのカーテンもあった。
けれど、この部屋には何もない。
私の思い出も、私らしさも。
私がここで暮らしていた証は、この家にはひとつも残っていなかった。
結婚して一年。
もうこの家で暮らしていないことは分かっている。
それでも、いつ帰ってきても、私の部屋は残っていると信じていた。
だけどもう、この家のどこにも私の居場所は見当たらなかった。
暗い物置き部屋で、静かに呟く。
「私のことなんて、もういらないの?」
子供みたいだ。
誰もそんなことは言っていない。
それなのに、まるで「お前はもう家族じゃない」と言われたような気がした。
布団を頭までかぶる。
暗闇の中で目を閉じても、涙が止まらなかった。
嫌われたわけじゃない。
追い出されたわけでもない。
それなのに、胸の奥だけがずっと痛かった。
枕に顔を押しつける。
声が漏れないように。
大人になってから、あんなふうに泣くのは久しぶりだった。
それから私は、「ただいま」が言えなくなった。
用があって実家へ行くことはあった。
けれど、玄関のドアを開くたびに、言葉が喉で止まる。
「…おじゃまします。」
気づけば、そう口にしていた。
用が済んだらすぐに帰る。
ここは、私の家ではないのだから。
ある日、用事があって実家へ向かった。
玄関を開けると、母はいつものように迎えてくれた。
「おかえり!」
台所には、私の大好物の唐揚げが並んでいた。
「今日はご飯食べていく?」
「…うん。」
久しぶりに、母の唐揚げが食べたいと思った。
「たくさん作ったから食べな」
そう言って母が皿に盛りつける。
「いただきます」
そう言って、私は母の作る特製ネギだれをかける。
これが我が家の味。
口に入れると、ネギの香りが鼻から抜ける。
「おいしい!」
「よかった。これ好きだったもんね。」
母の言葉に、私は箸を止めた。
(お母さん、覚えててくれたんだ…)
私はずっと、勘違いしていた。
もうこの家に、私の居場所はないと思っていた。
けれど、違う。
懐かしいネギだれが、それに気付かせてくれた。
今でも、昔の家の前を通るたびに思う。
ここは、私の家だったのに、と。
もうあの頃には戻れない。
けれど、私にはちゃんと居場所がある。
だからたまには、お母さんの唐揚げを食べに帰ろう。
大好きなネギだれを、たくさんかけよう。
その時は、また言えたらいいな。
「ただいま!」