無敵の唄

2026.07.15
出産・育児

朝の私は、娘にとって敵だった。

  

「わかっとるわー」

  

布団の中から返ってくる娘の声には、トゲがあった。

  

(じゃ言われる前に起きて)

  

起こさなければ学校に遅刻する。

  

起こせば睨まれる。

  


どちらを選んでも、私は悪者だ。

  

(あぁ、また、一日が始まるな) 

  

重たい体を引きずるようにキッチンへ向かう。

  

洗濯、朝ごはん、仕事の準備、犬の世話をこなす。
 
  

そして仕事へ向かう。

  

帰ったら家事をする。

  

犬の散歩、娘との時間、持ち帰った仕事を片づける。

  

(また、今日も終わっちゃったな) 

  

そうして私の一日は、消費されるように終わる。

  
 
 

いつからだろう。

  

私は毎日を生きるというより、回しているような感覚になったのは。 

  

楽しくないわけではない。

 
かといって、楽しいわけでもない。

  

ただ、目の前のタスクを一つずつ終わらせる毎日。


娘を一人で育てる責任。

  

お金の不安。

  

良い母親でいなきゃという鎧。 

  


自分のために生きる選択肢なんて、なかった。 

  

そんな私の唯一の逃げ場が 、車の中とジムだった。

  


いつも流れていたのは、ラッパー、GADOROの曲だった。

  

五年前、私はGADOROを好きになった。

  


人間らしい泥くささ。

  

嫉妬

  

弱さ

  

隠さずに言葉にするところに惹かれた。

  

車の中や家。

  

私は何度も彼の曲を流した。

  


すると、いつの間にか娘も口ずさむようになった。

  

「GADOROに会ってみたい」

  

娘がそう言った時、胸の奥が少しだけ明るくなった。

  

「ママも会ってみたい、ライブ一緒に行ってみよう」

  

こうして私たちは、ライブに行くようになった。

  

彼の曲の中でも、私には特別な曲がある。

 

『無敵の唄』

  

その曲に出てくる「くすぶる」という言葉に、私の心は反応していた。

 
私の中にも、くすぶっているものがあったから。

  
 
 

(私だって幸せになりたい。)

 
(私だって楽しみたい。)

  

(私だってもっと自由になりたい。)

  

でも、その声をいつも飲み込んでいた。

  
 
 

そんな日々の中で、4年前の夏の日。

  

私は娘と彼が出るフェスへ行った。


会場は人であふれていた。

  

若い子たち

  

ラッパーのような服装の人

  

若いギャルたち

  


母と娘の私たちは、少し浮いている気がした。

  

(こんな場所に娘を連れてきて、母親失格って思われやんかな )

  

不安になる私をよそに、娘はステージをじっと見つめていた。

  


私が好きになった音楽を、娘も楽しみにしてくれている。

  


そう思うと、安心できた。

  

ステージでは、次の準備が始まっていた。

 
ドン、ドン、と 重低音が何度か会場に響く。

  
 

「次、GADOROじゃない?」

  
 

誰かの声が聞こえた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。

  
 

照明が落ちた。

  
 

(もしかして)

 
 
 
歓声が上がった。

  
 

(もうすぐ出てくる。)

  
 

すると見慣れたキャップを被った彼がついに現れた。

  

いつもイヤホンの中にいた人が、今、目の前にいる。

  

「もう少し前、行けそう?」

  

娘が小さくうなずいた。

 
私は娘を守るように、人の波をかき分けて前へ進んだ。

  

(やった、最前列!!!)

 
距離は、たぶん五メートルくらい。

   

低い音が、心臓に直接響いた。

  

その時、ライブでは滅多に聴けないあのイントロが響いた。

  

 (あ……嘘、『無敵の唄』だ……!)

  

 サビに入った瞬間だった。 

  

ドカンと頭の奥で何かが爆発し、冷たい電気が背骨を駆け上がった。

  

 (え、なにこれ……?) 

  

世界がスローモーションになったようだった。

  

叫ぶ彼の姿。

 
片手を上げて、体を揺らす観客たち。
  
 
光の中で動く腕。
 


その全部が、ゆっくりに見えた。

  

彼の声が一言響くたび、私を縛っていた感情が粉々に砕けていく。

  

 (良い母親でいなきゃ) 

  

(自分を後回しにしなきゃ) 

  

毎日何枚も着込んでいた「母親」という防護服が、

  

重低音に揺らされてバラバラと足元に崩れ落ちていく。

  

隣に娘がいた。

  

でもその一瞬、私は誰かのための母親ではなかった。

  

大粒の涙が頬を伝う。

  

悲しいんじゃない。

  

誰のためでもない、この一分一秒を、私自身が魂の底から楽しんでいる。

  

私。

  

今、

  

ちゃんと、

  

生きてる。

  

初めて、生きてる感覚が体の真ん中に落ちてきた。

  

崩れ落ちた防護服の下にいたのは、母親でも、誰かのために動く私でもなかった。

  

ただ、好きな音を浴びて、泣くほど楽しんでいる私だった。

  

良い母親でいなきゃ。

 
自分を後回しにしなきゃ 

 
娘がいるのに、自分だけ楽しんじゃいけない。

  

そんな思い込みが、ずっと私を縛っていた。

  

それこそが、私の敵だった。

  


私を縛っていた思い込みが、私の敵だった。

  

ライブが終わったあとも、体は軽かった。

  

「すごかったね」

  

娘がぽつりと言った。

  

私は、うなずいた。

  

「また一緒に行こうね」

  

今度は私が言った。

  

娘は小さくうなずいた。

  

私たちは手をつないだまま、熱気の残るライブ会場を後にした。

  

やらなきゃいけないから生きるんじゃない。 

  

自分が楽しむ時間のために、生きていい。

  

私はこれから、誰かのためだけじゃなく、私のためにも生きていきたい。 

  

私だけの「無敵の唄」を歌いながら。 
 
 
 
 

40代|中1の娘、愛犬おもちと暮らす。 思い通りにいかない子育て、日々の中でくすぶる本音。 飲み込んできた感情をすくい取り、エッセイとして綴っています。 キャンプ、犬との暮らし、音楽、心が動く言葉が好き。

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