「もう、いい加減にして!」
玄関に立ったまま、私は太ももの横でこぶしを握っていた。
我慢していた言葉が、いっきに吹き出した。
娘の泣き声が、ふっと途切れる。
娘は、私をじっと見ている。
外からは、近所の人の話し声が聞こえてくる。
なのに、玄関だけは時間が止まったみたいに静かだった。
「ママ、大っ嫌い」
そう言った娘は、顔をくしゃっと歪めた。
そのまま、床へ崩れ落ちた。
「もう、わかんない。わかんない。わかんない」
娘の泣き声が、叫び声に変わっていく。
娘の中で、何かがぷつんと切れてしまったように見えた。
娘は、保育園の頃から、行きたくない気持ちを抱えていた。
朝になると泣いた。
靴を履く前にも、泣いた。
泣く娘を先生に託し、私は会社へ向かう。
どんなに泣かれても、私は保育園へ連れていった。
それが親の役目だと、信じていた。
小学校に入ってからも、行き渋りは続いた。
一年生の頃は、半年ほど一緒に登校する日々。
「ママ、帰らんといて」
私の胸が、ぎゅっとなる。
それでも落ち着けば、娘は学校で楽しそうに笑っていた。
(この子は、背中を押せば行ける子なんだ)
私はそう信じたかった。
勉強はできなくてもいい。
でも、休むのは一日だけ。
それが、私の中の決まりだった。
小学校三年生になると、休みたいと言う日が少しずつ増えた。
それでも一日休めば、次の日は行ける。
学校はしんどくても行くもの。
私自身が、そう生きてきた。
だから娘にも、我慢して行ってほしかった。
娘には、発達障害の診断があった。
大人数の中に入ると、体に力が入る子だった。
ざわざわした教室。
急に変わる予定。
先生の大きな声。
そういうものに、人よりずっと疲れやすいことも、私は知っていた。
いつか学校へ行けなくなる事も、覚悟していた。
それなのに、その現実が目の前まで来ると、受け入れられなかった。
(まだ行ける)
そう思わないと怖かった。
けれど、小学校四年生になると、一日休んでも次の日に行けなくなった。
夜になると、娘の顔が曇る。
明日の準備をしながら、涙をこぼす。
「明日、学校行きたくない」
またその言葉だ。
私の胸が、ずんと重くなる。
「でも昨日も休んだやん」
「学校行きなさい」
娘は首を振る。
「明日は行くって言ったやん」
私の声が、だんだん大きくなっていく。
娘は泣きながら椅子を蹴った。
私も怒った。
私の口から、言わなくていい言葉まで飛び出した。
私たちは、ぶつかるたびに笑顔をなくしていった。
夜になると、心が重い。
朝になると、もっと重い。
学校の話をするだけで、娘の体が固まる。
私の心も固まっていく。
そして、あの玄関の朝が来た。
「わかんない。わかんない。わかんない」
娘は同じ言葉を繰り返していた。
私は、何も言えなかった。
娘の声は、もう泣き声ではなくなっていた。
次の瞬間だった。
ドッ。
鈍い音がした。
一瞬、何の音かわからなかった。
娘の肩が、びくっと揺れる。
ドッ。
もう一度、音が玄関に響く。
そのとき、私は見た。
娘の小さな手が、自分の頭に向かって振り下ろされていた。
(え、何してるの)
頭の中が、真っ白になった。
止めなきゃ。
そう思うのに、足が動かない。
「わかんない。わかんない。わかんない」
娘は同じ言葉を吐き出しながら、何度も自分の頭を叩いていた。
娘が、自分を傷つけている。
そう気づいた瞬間、
「やめて!」
私の声が、裏返った。
(違う)
(背中を押していたんじゃない)
(私が、この子を追い詰めていた)
胸の奥がすっと冷たくなった。
学校に行けなくなる。
それも怖かった。
でも、娘の心が壊れてしまうこと。
その方が、ずっと怖かった。
私は娘の未来を守ろうとしていたつもりだった。
でも本当は、学校に行けない娘を受け入れるのが怖かった。
だって、私はしんどくても学校へ行ってきた。
私は、我慢してきた。
私は、頑張ってきた。
私は。
その「私は」ばかりで、娘のしんどさを見ようとしていなかった。
私は、自分のものさしで娘を測っていた。
でも、娘は私ではない。
私が耐えられたことを、娘も耐えられるとは限らない。
娘には、娘の心がある。
次の日、私は学校に電話をした。
「一週間、お休みさせてください」
受話器を持つ手は震えている。
休ませることは、まだ怖かった。
それでも電話を切ったあと、家の空気が少しだけ軽くなった気がした。
娘はソファでだらんと寝転んでいた。
くだらない動画を見て、娘が笑っている。
その笑い声に、私は洗濯物を干す手を止めた。
(ああ、この声、久しぶりに聞いた)
ハンガーの向こう側が、にじんで見える。
娘の「行きたくない」は、わがままではなかった。
心が出した、精一杯のSOS。
学校は大切だ。
それは今でも思っている。
それでも、私はもう娘の背中を無理やり押したくない。
あの日、時間が止まった玄関で、いつか娘が安心して靴を履けたらいい。
学校へ行かせる私ではなく、娘の朝を守れる私でありたい。