「目のあたりがくぼんできたな…」
鏡の前で小さくため息をつく。
とりあえず、ファンデーションを塗る。
とりあえず、リップをひく。
とりあえず、眉毛を書き足す。
最近の私にとって、メイクは『とりあえず』身だしなみのために行う行為となっていた。
若い頃はもう少し違った。
デート前はピンク。
出勤時はベージュ。
女子会はオレンジ系。
いろいろ楽しむ気持ちもあったはずなんだけど…
昔から一重まぶたにコンプレックスを持っていた私は、美容やメイクに自信が持てなかった。
雑誌の中のモデルさんと比べては、
「一重だもの、仕方ないか。」
そう言い聞かせていた。
そして今の私は、
「年のせいだもの、仕方ないよ。」
と言い聞かせている。
『仕方ない』
それは自分を納得させるための言葉だった。
ほら、それに。
今の私にはメイクを楽しむ余裕がない。
クラス替えしたばかりの娘もまだ少し不安そうだ。
今日も話を聞いてあげなくちゃ。
──あーあ、どうしたもんかなぁ。
とりあえず一息つこうと、いつもの動画アプリを開いたその時。
ある文字が飛び込んできた。
『開運メイク』
──なんだそれ。
…怪しい。
…でも気になる。
好奇心に負けて思わずタップしてみる。
「あーはっはっは!今日も笑顔で開運福顔!」
スマホから、とんでもなく元気なおばさまの笑い声が響きわたる。
──声でかっ!
おもわず音量ボタンを下げる。
するとおばさまは続けてこう言った。
「顔は粘土細工でーす!」
──…は?
顔が粘土細工??
頭の中が『?』で埋め尽くされる。
「ていねいなマッサージを毎日続けることで、必ず変化していきます。」
──ちょっと待って。
粘土細工みたいに変幻自在ってか?
ちょっと面白いぞ。
「みなさん開運したいでしょ?」
──そりゃしたいよ。
「じゃあお顔を運気良いものに変えていっちゃいましょう!」
美容と言われると苦手意識が湧いてしまうけど、開運となると話は別だ。
…ちょっと試してみる??
そそくさとスマホを持って洗面台の鏡の前へ向かってみる。
「眉はね、長く太く!」
「口角上げてねー!」
「ほっぺたはピンクでーす!」
「人気人気!」
先生に合わせて
「開運開運」
と声に出してみる。
笑顔で顔をぐるぐるマッサージしているうちになんだか笑えてきた。
そして、なんとなく血色もよく顔が明るく見えてきた。
ピンクのチークも思い切ってのせてみる。
…なんか、かわいくない?
もしかして…
メイクって楽しいの!?
数日後。
買い物で立ち寄ったドラッグストアのメイクコーナーに目が向いた。
前なら素通りしてたはずの場所。
すると、あるポップが視界に飛び込んできた。
『ブルベの方はこちら』
──ブルベ?
そういえば、
「お母さんは『ブルベ冬』だよ」
って娘に言われたな…
──ちょっとだけ見てみようかな。
ポップの矢印の先にあったのは、一本のリップクリームだった。
チェリーブラウン。
落ち着いた赤みがかった色。
普段の私なら絶対に手に取らない。
だっていつも選ぶのは目立たないベージュピンクだから。
だけど。
今の私はちょっと違う。
──今ならチャレンジできるかも?
私はチェリーブラウンのリップを手に取り、そそくさとレジへと向かった。
帰宅早々、洗面所の鏡の前で新しい色のリップを塗ってみる。
いつもは目立たない口元が赤く華やかに見えた。
「あれ、いいのでは…?」
メイクして心躍るのなんて久しぶり。
このまましばらく過ごしてみようかな。
──でも、本当に似合ってる?
一瞬不安がよぎる。
私の思い違いかもしれない。
その時、玄関がガチャリと開いた。
「ただいまー!」
帰宅した娘が手洗いのために洗面所にやってきた。
おかえり、と振り向いた瞬間、娘はこう言った。
「あれ?そのリップの色いいね、似合ってるよ!」
──え、ほんと!?
胸の中がパッと明るくなる。
いやいや、恥ずかしいって…
「本当?嬉しい!」
返事は控えめに。
──私、チェリーブラウンが似合うんだ!
まだ残っていた疑いは、確信に変わった。
娘がリビングに戻ったのを確認して、チェリーブラウンを手に取る。
──明日からよろしくね!
化粧ポーチへこっそり忍ばせ、私は明日からのスタメン候補に挨拶をした。