「ママー!」
階段を駆け下りながら、私は毎朝同じことを聞く。
「今日も入れた?」
フライパンの前に立つ母は、振り返りもせずに笑う。
「入れた入れた。」
「やったー!」
それを聞くだけで安心した。
お弁当の一番好きなおかず。
黄金色に輝く、四角い卵焼き。
私は、小さな頃から甘い卵焼きが大好きだった。
実家の朝は、少し甘い香りで始まる。
ジューッ。
卵がフライパンに流し込まれる音で目が覚める。
階段を下りると、台所には母がいた。
菜箸を器用に動かして、卵をくるっと巻く。
また卵液を流し込んで、
くるっ。
少しずつ四角くなっていく卵焼きを、私は飽きもせず眺めていた。
「まだー?」
「熱いからちょっと待って。」
「一口だけ!」
「はいはい。」
母は端っこを切って、小さなお皿にのせてくれる。
「あっつ!」
ふー、ふー。
一口かじると、優しい甘さが口いっぱいにほどけていく。
「おいしい!」
甘さが、鼻の奥までふわっと広がる。
母が最後に卵焼きを、お弁当箱のすき間へすっと入れる。
その瞬間、「今日も入ってる!」と嬉しくなる。
これが私の日常だ。
「甘くない卵焼きなんて、ありえない!」
私は、その考えを疑ったことがなかった。
ランドセルを背負っていた頃も。
制服を着るようになっても。
高校を卒業する日まで。
お弁当箱を開けるたび、
「あ、今日も入ってる!」
それだけで嬉しかった。
最後まで残しておいて、最後の一口で締める。
それが私のお弁当だった。
時は流れ、私は結婚した。
うちの料理担当は夫だ。
「お弁当できたよー。」
聞こえてくる声も変わった。
「ありがとー!」
キッチンへ行くと、今度は夫がフライパンの前に立っている。
「ちょっと味見して。」
炒め物が入った小皿を差し出される。
「うん、おいしい!」
「んー、なんか違うんだよ。」
「えぇ?十分じゃない?」
「鶏ガラがもうちょっとかな。」
そう言って、夫はまたフライパンの前に戻る。
「わかんないよー。」
私には違いがわからず、笑ってしまった。
ある日のお昼休み。
休憩室でお弁当箱を開ける。
パカッ。
そこには、四角い卵焼きが入っていた。
夫が初めて入れてくれた卵焼きだ。
「やった。」
昔と同じように、最後まで残しておく。
そして、ぱくっ。
……
ん?
もう一回噛む。
……
あれ?
甘く…ない。
え。
待って。
しょっぱい。
「えぇぇぇ!?」
頭がついてこない。
卵焼きなのに?
甘くないの!?
でも…
じゅわっ。
噛むたびに、出汁が口いっぱいに広がる。
鼻から、ふわっと香りが抜けていく。
もう一口。
……。
もう一口。
あれ。
「おいしい。」
なんで?
甘くないのに。
気づけば、さっきまで「違う」と思っていた味を、私は夢中で食べていた。
あの日から、私の中の”卵焼きの正解”はひとつじゃなくなった。
昔の私は、
「甘くないなんてありえない!」
そう思っていた。
でも今なら言える。
「一回食べてみて。」
きっと驚くから。
実家には、母の甘い卵焼き。
そして今の我が家には、夫のだし巻き卵。
どちらの食卓にも、卵焼きがある。
どちらも、私にとって大切な家族の味だ。
今日もお弁当箱には、黄金色の四角い卵焼きが入っている。
甘くはない。
でも私は、迷わず最後の一口に残している。